25社会と大学Ⅰ第10回

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簡単なまとめ

この講義では、会計の歴史、特に利益を生み出すことを目的とした事業の会計の生成と発展の歴史をたどります。複式簿記の起源から始まり、イタリアでの実践、オランダでの会社組織の発展、産業革命時の会計、そして現代企業会計の理論的基礎である同体論について、社会背景を踏まえて説明します。

  • 複式簿記は事業の経済活動を数値で記録し、集計し、情報を提供するツールである。
  • 会計の歴史は、複式簿記の計算システムが発展した時代と、そのシステムが確立した後に機能的な発展を遂げた時代に分けられる。
  • 株式会社の成立と会計報告の関係、そして会計責任(アカウンタビリティ)の重要性について解説する。

導入

この講義では、会計の歴史をたどり、特に利益を生み出すことを目的とした事業の会計の生成と発展に焦点を当てます。現在の企業会計の基礎が、いつ、どのような社会背景のもとに作られ、発展してきたのかを説明します。講義の流れとして、まず複式簿記について説明し、会計の歴史の外観を確認した後、イタリア、オランダ、イギリス、アメリカの4つの段階を踏んで歴史を見ていきます。

複式簿記とは

企業会計は、事業の経済活動をその国の通貨単位を用いて記録し、数値を集計して、必要な人や組織に情報を提供する一連の行為です。会計は単にお金の計算にとどまらず、事業の活動全体を数値で集約する行為です。複式簿記は、事業の経済活動を貨幣数値によってトレースし、その結果を数値によって凝縮し表現する情報作成のためのツールです。利益を計算するだけでなく、一定時点の財産のあり高を計算できる仕組みを持っています。資産、負債、純資産、収益、費用の5つの要素の相互関係を維持しながら、経済取引を2つの視点から捉え、記録し、計算集計します。

会計の歴史の外観

事業の会計の歴史は、複式簿記の計算システムが成立したところから始まりました。複式簿記は約700年前に成立し、そこから約400年をかけて勘定科目が整理され、簿記処理の方法が改善されました。さらに約200年かけて、今日の企業会計の直接的な基礎をなす会計の考え方が成立し、その考え方に基づいて会計報告の法整備化が進められてきました。会計の歴史は、複式簿記の計算システムが構造的に発展した時代と、そのシステムが確立した後に機能的な発展を遂げた時代に分けられます。日本における会計の歴史にも触れ、和式帳合から複式簿記への移行について説明します。

複式簿記の精製期:イタリア

複式簿記はイタリアで13世紀にその萌芽が見られ、15世紀には成立していたと言われています。当時のイタリアの都市国家では、金融業が盛んであり、債権と債務の管理が必要でした。最も古い帳簿は1211年に作成されたもので、利息や経費の記録が見られます。しかし、この資料だけでは複式簿記が行われていたとは断定できません。当時の商人は、自分の事業を把握し、取引相手との裁判になった時の証拠資料として会計帳簿をつけていました。勘定科目や借方・貸方の規則はなく、文章形式で感情と感情のつながりを意識しながら、使い勝手の良いように帳簿をつけていたと考えられます。

イタリアの社会経済背景

イタリアは地中海に面しており、海運の利があり、東方への交通の要衝でした。十字軍の遠征は、イタリアの北部の都市に経済需要を引き起こしました。地中海貿易も盛んで、ジェノバ市は近隣の都市国家との戦争費用を賄うために積極的に貿易を行い、税収を運用していました。金融業を営む商人が活躍し、フィレンツェは金融業で栄え、メディチ家のような莫大な富を手にする者もいました。金融業者はイタリア国内だけでなく、他の国々にも支店を設け、国際的な取引を行っていました。株式会社制度がない時代に、商人たちは自分の財産や家族、親族の財産を事業に投じたり、仲間と資金を出し合って事業を行っていました。

ルカ・パチョーリとスンマ

1494年に印刷本として観光された数学書『スムマ』は、ルカ・パチョーリによって著され、世界で初めて複式簿記を印刷本によって広く世に知らしめました。パチョーリは、ベネチアで家庭教師として働いている時に複式簿記を知り、スムマの中で詳細に解説しました。スムマには、財産目録の作成、仕訳の作成、総勘定元帳、名目勘定と物感情、損益計算、決算など、現在の企業会計に見られる様々な手続きが含まれています。

15世紀イタリアの事業形態と会計

15世紀のイタリアでは、ベネチアとフィレンツェで異なる事業形態が見られました。ベネチアでは、家族や親族同士が資金を出し合って事業を行う同族経営(ソキエタス)が特徴でした。ここでは、商品別の損益計算が行われ、経営管理に役立てられました。一方、フィレンツェでは、自分の家族や親族のみならず他人からも資金を集めて事業を行うマグナソキエタスが見られました。ここでは、出資の割合に応じて利益配分を受けるため、損益計算が重要でした。出資者全体の納得を得るために、財産の一覧を示す情報(ビランチオ)が作成され、事業を始める前と終えた後の財産額の増加によって利益を計算する方法が取られました。

イタリア編のまとめ

ベネチアとフィレンツェの共通点は、複式簿記によって会計を行っていたことですが、損益計算方法が異なります。ベネチア簿記では、経営管理の必要性が高いことから、商品別の損益計算が行われていました。一方、フィレンツェ簿記では、合資組織の生産解散にあたって、事業の全ての活動について損益計算を行う全体損益計算が行われました。この全体損益計算は、その後の時代に行われる期間損益計算の初期的形態であると言えます。

大航海時代:オランダ

16世紀から17世紀にかけての大航海時代には、ヨーロッパが東洋の産物や文化と遭遇する新しい時代の幕開けとなりました。オランダは商業の中心として一時代を築き、江戸時代の鎖国下の日本にとっても唯一のヨーロッパ国でした。オランダはスペインからの独立後、アムステルダムを中心に国際都市へと発展し、ヨーロッパ最大の船舶数を誇る貿易大国となりました。アジアの海を舞台とした派遣争いの実動を担っていたのが東インド会社です。オランダの連合東インド会社(VOC)は、株式会社の始まりと目されています。

オランダ東インド会社

オランダ東インド会社は、1602年に設立され、東南アジア貿易を独占しました。資本金額は約6万グルデンで、株主の責任は出資の範囲の有限責任性でした。経営は取締役会によって運営され、17人会という諮問機関が監督する形で会社の機関が設けられました。東南アジアの更辛料や砂糖といった産物はオランダ経済を潤し、各地で定期市が開催されるなど商業の発展を促しました。

オランダにおける簿記の特徴

オランダでは、ルカ・パチョーリの『スムマ』が翻訳され、複式簿記が普及しました。連合東インド会社でも複式簿記による会計が行われ、バタビアに統括支店を設けて現地に散らばる支店の管理や本国への報告を行いました。オランダの商人が継承したのはベネチア簿記ではなく、フィレンツェ簿記でした。連合東インド会社は株式会社であり、事業活動の全体を把握した上で厳密に損益計算を行い、株主に報告する必要がありました。設立当初は定期的な決算は行われていませんでしたが、事業を始める前と終わった後の純資産を計算して損益計算を行っていました。

ステフィンの数学的実践

オランダでは、ステフィンの『数学的実践』などの簿記書が出版され、複式簿記の工夫が行われました。この本では、事業の初めから終わりまでの全体的な損益計算を行うのではなく、途中で暫定的に期間を区切って損益計算を行うこと、決算報告書を作成する前に会計帳簿を締め切り、生産表を作ること、財産目録に相当するビランチ(状態表)を作ることが書かれていました。また、収益と費用の項目を1つの感情にまとめて一覧表にするという新たな決算報告の形を示しました。

産業革命:イギリス

18世紀から19世紀にかけてのイギリスでは、第一次産業革命が起こり、企業組織や企業活動が大きく変化しました。オランダに代わってイギリスが発展を続け、綿織物産業が発展しました。工場を作り、最新式の機械を入れるためには資金が必要であり、株式会社が利用されました。資本家は生産、利益、蓄積というサイクルを作り上げ、経済を活性化させました。

株式会社の成立

18世紀は、今日の企業につながる事業形態としての株式会社が成立する時代です。株式会社の特徴は、利益を生み出すことを期待した人たちが資金を合わせて事業を行うという組織であるという点です。イギリスの東インド会社やオランダの連合東インド会社は、設立当初は1航海ごとに決算をする当座企業の性格を持っていましたが、徐々に継続企業としての性格を強めていきました。

株式会社の組織と会計報告

株式会社は不特定多数の投資家から資金を集める仕組みであるため、経営の実務を担当する経営者と資金だけを拠出する株主に役割が分割されます。経営者は株主総会から経営を任されている代理人に過ぎず、株主総会の信任を受けなければ事業を行うことができません。そのため、両者の信頼関係を維持するツールとして、会計情報である財務諸表(貸借対照表と損益計算書)があります。財務諸表は、企業資本の運用を委託された経営者が、その委託をした株主に対して自己の経営責任の遂行状況を説明するためにあります。

アカウンタビリティ

企業経営者は株主から資金の委託を受けて事業を行い、委託された資金の管理、保全、運用を行う責任(受託責任)を負います。受託責任を遂行したことを説明する責任(会計責任、アカウンタビリティ)もまた生じます。会計責任の遂行は、株主総会において会計の決算書を開示し、それが総会において承認されることによって行われます。

南海泡沫事件

18世紀には、南海会社が設立され、南アメリカ貿易を独占的に担う計画が持ち上がりました。しかし、南海会社は大きな成果を作ることができず、株価が急騰し、南海泡沫事件と呼ばれる状況が作り出されました。この事件を気に、イギリスでは共同出資による株式会社に懸念を抱き、法末法という法律を制定して共同趣旨の株式会社の設立に慎重な姿勢を取りました。

会社法と近代会計制度の始まり

1844年に株会社登記法が制定され、株式会社の設立について認可性の代わりに準則法が導入されました。同時に、会社の財務内容を詳細に明らかにすることが求められ、貸借対照表が法律に基づく制度として規定されました。これは近代会計制度の始まりと言えます。

会計の変化

近代的な株式会社が設立されるようになり、産業革命を経て工場制工業へと産業は発展しましたが、それによって会計行為は機関損益計算を定期的に行う時代に入りました。所有と経営の分離が進み、会計報告の重要性は高まっています。しかし、会計報告の基本的な形は、機種と期末の資産負債純資産を残高(貸借対照表)にまとめて両者を比較することで利益を計算する形式で行われていました。

実務からの要請

19世紀近くになると、イギリス企業は北アメリカ大陸との事業が増え、委託手数料などを処理する必要が出てきました。また、固定資産の会計処理をどうするかについて、従来の処理法の矛盾が指摘されるようになりました。事業が変化発展すれば、現実の事業の活動を数値で明らかにする会計もその変化発展に応じなければ、投資家など情報利用者の意思決定に役立つ情報を提供することはできません。

監査制度の導入

イギリスにおいて監査は、1862年に貸借対照表の作成が義務づけられた時に同時に導入されました。1866年の改正会社法において監査制度が導入されました。

同的貸借対照表評論

20世紀に入り、ドイツの経営経済学者シュマーレンバッハが『同的貸借対照表評論』を著しました。この書物では、貸借対照表を構成する資産負債純資産と収益と費用との関係を考え、貸借対照表と損益計算書とはどのように関係づけるべきかを考察しました。シュマーレンバッハは、事業活動はずっと行われ続けているものという認識を持ち、会計はその継続される活動を数字によって描写する行為であると考えました。

同体論

シュマーレンバッハの同体論は、現代の企業会計の基礎となっています。同体論のポイントは、貸借対照表を企業そのものを示す収益と費用の観点から再定義したという点です。資産も負債も収益費用になる前の姿であるとし、収益費用を中心とした資産負債の再定義によって明らかにされた貸借対照表の性格は、その期間の損益計算において未解決の項目を収納する表であるということです。

アメリカの証券取引法

20世紀には、アメリカが会計の中心となりました。1929年にニューヨーク証券取引所において株価が大暴落し、アメリカ経済が大恐慌に陥りました。この大恐慌の原因の一端には、投資行動の加熱が上げられます。当時アメリカでは、企業が公表する会計情報の作成と開示に関する厳格な基準や法整備が十分ではありませんでした。

ニューディール政策

大恐慌の経済の混乱を収束させるために、アメリカではニューディール政策が打ち出され、証券市場における会計情報開示を規制する厳格な仕組みが整えられました。1933年に証券取引委員会(SEC)が設置され、1934年には証券取引法が定められました。アメリカ証券取引法は、第二次世界大戦後日本に制定された現在の金融商品取引法のモデルとなりました。

会計制度の整備

それまでの会計情報の開示法が改められ、取得原価によって記載するようにし、シュマーレンバッハの同体論の考え方に基づいて会計制度を整備する方向に舵が切られました。アメリカにおいては、アメリカ会計学会を中心として企業が遵守すべき会計原則の作成と改定がなされ、1972年に財務会計基準審議会(FASB)へと受け継がれていきます。

まとめ

今回の講義では、約700年もの会計の歴史を辿ってきました。複式簿記は商人の知恵の結晶として成立し、経済活動のあるところ会計は実践されています。今の企業会計が成り立っているのも複式簿記があってこそです。そして会計の歴史は、その複式簿記から作られる会計報告の役割の変化の歴史でもあります。貸借対照表と損益計算書は、貨幣数値によって表現された利益を追い求める企業の姿そのものであると言えるでしょう。

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文字起こし

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0:01 社会と大学一応受行の皆さん、こんにちは 。今週のこの講議は先週の内藤先生の講議 に引き続き会計学に関する内容で私原田が 担当します。内藤先生は現在の企業会計の 制度がどのような動きをしているかについ て話されたと思います。私は会計の歴史 研究が専門領域なので、現在の企業会計の 基礎がいつの時代にどのような社会背景の もに作られ、そして発展してきたのかをお 話しします。つまり会計の歴史、特に利益 を生み出すことを目的とした事業の会計の 生成と発展の歴史をたどります 。今回の講義の流れです。まず会計の歴史

0:50 を具体的に見ていく前にそもそも企業で 採用されている福式簿記とはどのような 簿記のことを言うのかということをお話し します。そしてそれを踏まえて会計の歴史 の外観を確認します。そして後会計の歴史 を4つの段階を踏んで見ていきます 。まず福式簿記の発症の地であるイタリア において14世紀から15世紀にかけて 実践されていた福式簿記と損益計算の特徴 について説明をします 。次に16世紀から17世紀にかけて大 公開時代にオランダにおいて見られた会社 組織の発展の経緯とそこで行われていた 会計について説明をします。

1:38 続いて18世紀から19世紀にかけては第 1次産業革命時の会計ということ ですに計算システムとして確立している 福式簿記の計算システムからいかなる会計 情報を導き出すのかという機能的発展の 過程を取り上げます 。そして最後に20世紀ということで今日 の企業会計の理論的基礎をなす考え方で ある同体論についてその社会的な背景を 踏まえて説明をしたいと思います 。企業会計は事業の経済活動を何円といっ たその国の過幣単位を用いて記録しその

2:26 数値を集計しまとめて必要とする人や組織 にその情報を提供する一連の行為を言い ます。つまり会計とは記録をすることから 始まり一定期間にわりその事業の活動全体 を数値で集約する行為で単にお金がいくら あるかとか100円と200円を足して 300円と計算することにとまらないの です 。会計行為はおよそ事業体として経済活動 を行うことが一般化して以来、小管校とし て人々の経済生活にね指してきたものです 。そして事業がその活動を記録計算する

3:14 ために考案され実践されてきたのが福式 簿記という簿記システムです。福式簿記は 単なる簿記入の方法ではなく、事業の経済 活動を過兵数値によってトレースし、その 結果としてその活動の全体を数値によって 凝縮し表現する情報作成のためのツールな のです 。そしてその特徴は利益を計算するだけで なく同時平行で一定時点の財産のあり高を 計算できる仕組みを持っている。ことです 。この仕組みにおいては資産、国際、準 資産、収益及び費用の5つの要素の相互の

4:00 関係を維持しながら経済取引を2つの視点 から捉え、記録し、計算集計します。この プロセスにおいて2面、つまり経済取引を 2つの視点から捉えた結果を必ず均衡さ せるという貸借平均の原理を最初から最後 まで一貫させることによって財産計算と 損益計算等を同時に行うだけでなく会計算 の性格性を実現することができるのです。 現在のところ企業会計にとって福式簿記を 超えるこれより優れた計算の仕組みはあり ません 。特に事業の会計の歴史はこの福式簿記の

4:47 計算のシステムが成立するところから 始まったと言って良いと思います。単に 商売の計算をしたとかお金のデリーを記録 したという事実であればこのスライドに 書かれている現在から約700年を遡る 14世紀や15世紀よりずっと以前から 行われていたと想像されます が福式簿記の歴史から始まる会計の歴史は その計算の仕組みの元に基調された調簿 資料の存在によって立証されます。 総合政策部の皆さんが秋学器の基礎簿記を 利習されたらそこで福式簿記を勉強する ことになりますが、その現在の企業で採用

5:34 されている簿記は実に約700年前にその 基礎が成立していました。その基礎にある 福式簿記の核となる考え方を変えず、時代 を経て不要な手続きは削ぎ落として集約し 、現在は非常にシンプルな形で使われてい ます。社会経済活動が発展すればその計算 システムも複雑化すると想像されますが、 福式簿記の場合は逆にシンプルな計算の 仕組みを備える形で発展する結果となった ので、どのような経済活動も記録計算 できる仕組みとして今に至っているのです 。さて、こうした福式簿記の発展の特徴を

6:22 捉えたところでスライドに示した会計の 歴史の外を見てみましょう。現在企業で 行われている会計から遡ること約700年 前に福式簿記は成立しました。そこから約 400年をかけて事業の活動を記録計算 するにあたり勘定科目が整理され、簿記 処理の方法が改善され 、そして約200年かけて今日の企業会計 の直接的な基礎をなす会計の考え方が成立 し、その考え方に基づいて会計報告の 法整備化が進められてきました。つまり 会計の歴史を大きく2つに分けると福式

7:09 簿記の計算のシステムが昇集として実践さ れる中で徐々に構造的な発展を溶けていっ た時代と福式簿記という計算システムが 完全に成立した後に特定の経済辞書を いかに会計処理をしその結果として会計 報告書がいかなる情報を提供すべきかと いう機能的な発展を遂げた時代とに分ける ことができるのです 。そしてこの授業では取り上げませんが、 日本の状況も見ておきましょう 。日本に残する最古の帳簿記録は1500 年代の最後に作成されたものです 。それ

7:55 以降江戸時を通じて日本では独自の簿記法 が実践されてきました。この母器法のこと を和式町愛と言います。この和式町愛は 明治以降も一部の中小の焦点におい て戦前まで実践されてきました。 方明治に入り日本の近代化が進んでいく と副行地が西洋を日本に伝え 、特に大企業を中心に福式簿記が実践さ れるようになりました。そしてその福式 簿記が現代の企業に受け継がれているの です

8:41 。それではヨーロッパにおける福式簿記の 歴史に話を戻しましょう。このスライドに は福式簿記の電波の過程が示されています 。13世紀から15世紀にかけてイタリア で福式簿記が成立しました。そして16 世紀から17世紀にこのイタリア式の簿記 がオランダに電波し、ここで福式簿記の 基本的な形が確立します。そしてその後 18世紀から19世紀にかけて今度は会計 報告の発展が見られるのです 。そこでこの授業ではこれ以降この各国各

9:30 段階における福式簿記と会計の発展につい て見ていくことにしましょう 。それではここから各時代における簿記 会計の歴史を辿どっていきましょう。 最初に福式簿記の精世紀です 。福式簿記生誕の地はイタリアで13世紀 にはその方が見られ15世紀には成立して いたと言われています 。このスライドにはイタリアの地図を示し ましたがここには皆さんもご存知の年が見 られるかと思います 。これらの都市は中世紀には都市国家を 形成し、それぞれが独立して経済活動を

10:16 営んでいました 。そしてこれらの年にはいずれも福式簿記 発症の地と考えられるような当時の商人が 記した調簿資料が保管されています。 した募資料から当時の商人がどのような 簿記によって事業を管理していたのか、 そしてその事業内容はどうであったかを 知ることができます 。これらの都市において営まれていた事業 の中で特に帳簿資料が多く残されているの は金融業です。金融業者は債権と債務の 管理を行わなければなりません 。それらの資料のうち最も古いものは

11:05 1211年に作成された帳簿です。その 帳簿資料はイタリアフィレンの金融業者が 記したものですが 、利息の記録や経費の記録が見受けられ ます。ただこの資料は4ページしか残って おらず、そこで行われていた簿記の全体像 はもちろん福式簿記には必の感情と感情と の関係性までを見ることはできません。 従ってその時代にすでに福式簿記が行われ ていたとまでは言えません 。また大ле人が金融と商品売買業と兼ね ているケースもあり、業務の多化状態が

11:51 会計記録の必要性を高めていたことは 間違いないでしょう 。そしてまたジェノバでは市役所の財務官 が市が徴収した税金をどのように運用した かを後々市民に報告するために帳簿を作成 していたという事例も見られます。 いずれにしても生期ですからジェノマの 財務官の事例を除き多くは当時の商人たち が自分の事業を把握する必要と取引相手と の間で裁判になった時の兆証拠資料として 会計帳簿をつけていたと言われています。 従って現在のように勘定科目と数値と

12:38 わずかな駐のみで記録を行うという感想化 もなければ資産負債純準資産収益費用の 書き位置を定める借規則もない中 で文章形式でただ感情と感情とのつがりを 意識しながら事故の使い勝手の良いように 帳簿をつけていたと考えられます。 ではどうして福式簿記がイタリアで発生し たのか。次に当時のイタリアの初を巡る 社会経済の背景を見てみましょう 。現在ももちろんですがイタリアは当時 から地中会に面しています。つまり海運の

13:25 利があることがわかります。そして陸地は 東方へと向かう交通の要少です。 した海運や陸運の利が集中的に生かされた 出来事は11世紀に始まる十次軍の遠征 でした 。キリスト教の聖地の奪還を目指して ローマ教皇庁からの要請により西ーロッパ 諸国から兵士が退去してエルサレムに送ら れた出来事です。十次軍の遠征は13世紀 まで合計8階にわって行われました。こう した人的物な移動はその通り道である イタリアの特に北部の都市に経済従業需要

14:11 を引き起こしました。さらに地中会に面し ているために北リカとの地中会貿易も盛ん で当時のイタリア北部の都市は経済発展が 生じる要因がいくつも見られたのです 。地中会貿易は商人だけでなく、例えば 先ほどお話ししたジェノバシー成長も近隣 の都市国家などとの戦争費用を賄うために 積極的に貿易を行い税収を運用している ことが帳簿資料によって明らかになってい ます。会計帳簿には北アフリカから 買いつけたごまや更新量を感情を立てて 記録をしその売買の天末まで計算した結果

14:58 が記されています。とはいえこのような 経済環境化において活躍の中心をなしたの が金融業を営む商人たちです。特に フィレンツは金融業で栄え、その金融業者 の中には莫大な富を手にするものもいて、 そうした承人は本業である金融業のみなら ず、商品売買業など事業の多化を図りまし た。こうした例として1300年代に1台 にして許学の富を作り上げたメディチケが 上げられるでしょう 。こうした金融業者は視点をイタリアの 国内のみならず他の国々にも設けて活動し

15:44 ました。14世紀当時ヨーロッパ1の力と 権力等を握っていたローマ教皇庁は フランスのアビニオンにありましたので もちろんそこにも視点を設ける他ロンドン にもジュネ部にもそれぞれ視点を設けてい ました。こうした国をまたぐ今でいう インターナショナルな取引は通過間換算の 必要もまたその場所において資金重要も 高く金融業は経済活動が回っていくために 不可欠な業種だったのわけです。従って 金融業者はこうした視点の運営も含めて 自分の事業の全体を管理するために簿記は 欠かせないものであったわけです 。そしてここではその事業のあり方に注目

16:30 してみましょう。株式会社制度などない 時代に商人たちは事業を行うための元出手 となる資金を他人に借りる以外にどのよう に集めたと考えますか?自分の財産を事業 に投じる。自分の財産で足りないければ 家族のあるいはもっと対象を広げて親族に も財産を出してもらうですね。 もう1つは自分の財産も出すが自分が 仲良くしているあるいは同じように事業を やりたいと考える仲間を見つけて財産を 出してもらうです 。中世イタリアの初都市では商業が どんどん発達し、経済が大きくなっていく

17:15 。そうした中で資金需要が高まっています 。しかも地中海貿易などは大きな船を 仕立てて北リカと往復するなど大掛かりな 事業です。リスクも高いけれどリターンも 大きい。そういう事業が展開されていた わけですから、個人的な財産だけでこうし た事業を行うことは難しく、商人たちがお 金を出し合って事業を行うということは 必然であったわけです 。家族、親族で財産を出し合って活動する 組織体を解えたす合組織と言います。これ に対して自分と自分以外の他人の資金を 合わせて活動する事業を マグナソエタス合子組織と言います。

18:02 ベネチアではソキエタスがフィレンツでは マグナソキエタスが見られたと言われてい ます。この事業体の構成の違いがそこで 行われる会計算の目的や福式簿記の内容に 違いをもたらしたのです 。このスライドに示したのは1494年に 印刷本として観光された数学書3術機下日 及び比例相談 略下て馬と呼ばれている書物の扉です。 1440年頃、ドイツでグーテンベルグが 活板印刷機を発明し、聖書や気当者などの キリスト教の書物を中心に印刷が行われて いましたので、数学書として観光された

18:48 この書物は印刷本としては早い時期のもの です 。この著者は右の頭に示したルカパチと いう人物です。見た通り生職者でかつ数学 者でもあります。ここでこの書物とその 著者をスライドに示したのはこの書物が 世界で初めて福式簿記を印刷本によって 広く世にしめたからです。つまりこの書物 の中に福式簿記を解説する部分があった わけです。この書物は全体で600ページ を超える対策ですが、福式簿記の解説に 咲かれたページは30ページほど。しかし

19:34 そこには詳細に15世紀当時のベネチア 承人が行っていた福式簿記の全体像とそこ での細かな処理方法が解説されています 。ではなぜ数学者であるルカパチーよりが 福式簿記のことを知っていたのでしょうか ?ルカパチよりはそうになる以前の19歳 の時にベネツアで大人であったアントニオ でロンピアジという人の思の家庭教師とし て雇われました。すでに数学の知識を持っ ていたパチお家庭教師で働いている時に ロンピアジの店で行われていた福式簿器を 知ることになるのです 。その後ルカパチよりはローマへ移り

20:23 フランチェスカに入り修道層となります。 そして生殖者として 働く傍イタリア各地において大学や学校で 共弁を取り数学に関する著書を出版します 。 こうして出版された書物の1つが寸馬です 。そしてまた様々な知識層との交流におい てレオナルドダヴィンチとも信仰を結んで います 。ス馬はそれが印刷本であったことでその 後のヨーロッパに福式簿記の技術を伝える 役割を果たしました 。ルカパチよりスンマで記したのは当時 ベネチア商人が行っていた典型的な福式

21:09 簿記の姿です 。において福式簿記に関する記述はたった 30ページではありますが、そこに記され た内容は36項目に渡るもので、この スライドにあるように現在の企業会計に見 られる様々な手続きを含んでいるものです 。例えば丸1の財産目録の作成ですが、 この財産目録は現在の貸借対象表の原型 です 。一定時点におけるその事業が持っている 全てのプラスマイナスの財産を一覧にした ものです。そして丸2の仕訳の作成ですが 、福式簿記が事業が行う経済活動すなわち 取引を1つ1つ記録していくところから

21:55 始まる。その最初の手続きを示す帳簿が 仕訳町です。そして丸さの相関元長は丸2 の仕訳町に記録されたそれぞれの取引を 現金や預金商品といった感情化別にその それらの増加と減少を計算するための帳簿 です。現在の企業会計においてもこの丸2 と丸3の帳簿は主要簿として作成され、 貸借対象表や損益計算書といった会計情報 にデータを提供するためのソースとして 存在しています。そして丸後の名目感定と 物感情というのがありますが、福式簿記は 資産負債純資産といった物感情と収益と

22:42 費用といった名目感情とが相互に関係を 持ちながら事業の経済活動を記録計算して いく仕組みですからこれら5つの要素は 福式簿記にとって必の構成の要素構成要素 です。ルカパチよりの時代にはすでにこれ らの5つの要素が考案され、実務で使用さ れていました。次に丸6の損益計算ですが 、この時代は事業を行う前の財産目録に 記された総材と事業がを行った後の相材を 比べてどれだけ増えたかという損益計算を 行っていました。そして丸7ですが、この 時代においては事業によっては1つの事業

23:30 を行うたびに事業を解散し、また別の事業 を行うために新しい事業を作るという当座 企業としての性格を持つものがたくさん ありましたが、他方において次の世代へ 事業を引き継いでいくために継続的に事業 を行う組織体も存在していました。そう すると一定の時期に仕訳や相関元庁を 締め切り利益を計算し、そして使い残した 財産は次の木へと繰り越していく必要が出 てきます 。こうした現在の企業会計で行われてる 処理についても説明がなされているのです 。このことから現在のように1年の最後に

24:16 決算を行うという定期的なものではなかっ たにせよ決算を行い財産の計算と損益の 計算等を行っていたということがこの記述 から分かるのです 。それでは次に15世紀当時のイタリアに おいて事業を行っていた組織体がどのよう な授業形態を取っておりそこでどのような 会計を行っていたかその特徴についてお話 をしていきたいと思います。先ほどお話し したベネチアとフィレンツでは異なる事業 隊が見られました。ベネツアでは家族親族 同士が資金を出し合って事業を行う同族 経営すなわちソエタスという特徴を持つ 事業でした。この組織では親族感で利益に 対する権利を持っており、さらにお互いが

25:03 お互いを知る間柄でしたので厳密な損益 計算はそれほど重要ではなかったと考え られます。むしろここではその組織が 取り扱う商品のどれがどれほど売れている のか商品別の損益計算を行う。その結果を 会計記録から知ることで細かな経営管理を することができる。そう考えるならば口別 損益計算を行えばその会計の情報は経営に 役立ちます 。それに対してフィレンツでは自分の家族 親族のみならず他人からも資金を集めて 事業を行うマグナソエタスです。ここでは 利益が出た場合には出資者は出資の割合に 応じて利益配分を受けるわけですから損益

25:50 計算もシビアになってきます。ちゃんと 納得できる結果報告と正確な利益数値を見 ないと出資者は納得できません 。こうした他人も入った出資者全体の納得 を得るために作成された財産の一覧を示す 情報はビランチオと呼ばれるもので事業を 始める前のビランチオの純額としての財産 額が事業を終えた後にどれだけ増加したか によって利益を計算するという方法が取ら れました。こうした損益方法は現在では 財産法と呼ばれビランチオは現在の貸借 対象表の原型と考えられています。 これら2つのタイプの事業において当時 行われていた簿記はいずれも福式簿記でし

26:36 たが損益計算方法が異なります。 ソケエタスが多く見られたベネチアと マグナソケエタスが多く見られた フィレンセとそれぞれの場所で実践されて いた簿器をイタリア編のまとめとして示し ておきましょう。この点はその後の時代に 受け継がれていきます 。まず両者の共通点は福式簿記によって 会計を行っていたということの他、地中会 貿易のように当時はまだリスクの高い冒険 事業であった場合も、また同族組織のよう にその事業が活動期間を設けず継続的に 存続している場合にも損益計算を行う決算

27:22 が定期的に未だ行われていないということ です。ただここでは定期的ではないにせよ 決算が行われていたという事実は重要です 。福式簿記はまさに損益計算のためにその 特徴を生かせる計算システムだからです。 そして既でに述べたようにベネチア簿記は 経営管理の必要が高いことから事業全体と いうより商品別口別の損益計算が行われて いたのに対してフィレンゼ簿記では合子 組織の生産解散にあたってその事業の全て の活動について損益計算を行う。これを 全体損益計算と言います。不定期である

28:11 ことはソキエタスと変わりません。しかし このマグナソキエタスでも不定期ではある がその期間に行った全ての活動を記録する ということが重要です。というのも現在の 企業会計では一部の項目の増加減少だけを 把握する部分的な記録計算をするのでは なく閉で把握できる企業活動の全てを把握 しているからです。 つまりこのフィレンツ式簿記で行われてい た全体損益計算がその後の時代に行われる ようになる機間損益計算の初期的形態で あると言えるのです 。それでは時代を先に進めていきましょう

28:59 。16世紀から17世紀の大公開時代に 入っていきます。このスライドはこの時期 にすでに開拓されたヨーロッパから太平洋 、そして東南アジアに向かうコ路を示して います。よく見るとスペインポルトガル から線がたくさん出ているのが分かります 。世界史を勉強した人はお分かりかと思い ますが、ヨーロッパから遠用コ路を世界に 先立って開拓したのはスペインポルトガル ですね。それは極東の地日本の種ヶ島に いち早く到達したのがスペインポルトガル の選教士であったことからも明らかです。 彼らは未開拓な地にキリスト教を不教する ために春バル海を超えてやってきました

29:45 。これらの後開拓は1400年代に始まり 、1500年代にはここに示された矢印の 通り地球を一周しています。そして16 世紀から17世紀には緑のルートが 南アジアから延長され、東南アジアに 向かうコ路として確立します。大公開時代 はこうした後路延長の上にヨーロッパが 東洋の産物文化と遭遇する新しい時代の 幕明けとなったのです。そこでこの時代に 商業の中心として一時代を築づき、江戸 時代鎖国家の日本にとっても唯一お 付き合いを続けたヨーロッパ国である オランダを取り上げます

30:31 。16世紀から17世紀にかけてオランダ は黄金の時代を迎えています。オランダは 元々はスペインの支配にあって、財政に 苦しむスペインに近金をもたらす存在でし たが、そのために銃勢が重されるなど長く スペインの圧点に苦しめられてきました。 オランダの南部フランスと間に接する フランド地方は恐利者によって経済的に 抱えた地域でしたが、スペインの貸す従税 と厳しい宗教弾圧によって商人たちは スペインに対して恨みを持ち、宗教改革が 進む北部の商人と休合してスペインに対抗 し独立戦争を仕掛けます

31:16 。最終的に独立戦争を指揮したのは オランダの相徳としてスペインから統地を 任されていたオラニエコウィレム一世です 。オランダはオラニエコをいただき80年 戦争と呼ばれる長期にわる戦争を経て スペインから独立を勝ち取りました。そう した政治情勢が流動的な時代ではありまし たが、スペインとの戦争によってオランダ 南部のアントアプなどの主要都市が被害を 受けたため、商人たちが新しい活動拠点を 公案都市アムセルダムに移し、その血の利 を生かして国際都市へと発展していき、 オランダはヨーロッパ最大の船舶数を誇る 貿易大国となったのです

32:02 。スペイントの80年戦争のさ中にあって もオランダの海外進出への動きは非常に 活発で順調に先ほどの地図に見られるコ路 を確保して東南アジアまで証券を広げて いきます。オかつての葬国であった スペインポルトガルは海上派遣をイギリス とオランダに取られ、南アジア、東南 アジア貿易は後から伸びてきた。この2国 を中心とした私な争いへと向かっていき ます 。このようなアジアの海を舞台とした派遣 争いの実動を担っていたのが東インド会社 です。オランダの連合東インド会社は イギリスに遅れること1602年に設立さ

32:48 れました。イギリスの東インド会社は 後ほど触れますので、ここではオランダの 東インド会社の外を説明します 。この会社は1602年以前にすでに東南 アジア貿易を計画していたいくつもの 組合い企業が合併して設立されたものです 。最初に設立されたのが1594年の遠国 会社カンパニーファンフェイレです 。9人の商人たちが資金を出し合って作り ました。この会社は高路確項のために何度 か後悔を計画しますが失敗しました。しか しながら次に1597年にアモステルナム に 新公会社ノイエコンパニーファンフェレが

33:35 設立され、間もなく遠国会社と合併し、 1598年にインドネシアのジャ和島に 到達します。この公開会社は現地で大量に 更新量、つまり考量と故障などを仕入れ ヨーロッパに持ち帰えると400%の利益 を生み出したと言われています。特に利益 を生み出したのは考量です。このためこの 成功を気に最大で14の公開会社が競って 東南アジア貿易へと進出したため、更新料 の仕入れ価格が跳ね上がりヨーロッパでの 販売価格が下がってしまい、同じ国の中で の競争が国益に与える負の影響が危惧され

34:22 ました 。そこでオランダ議会は14の公開会社を 合併させ、1602年に連合東インド会社 を誕生させたのです。東インド会社の名称 の前に連合とされているのはこうしたいく つもの会社が集まってできたからなのです 。オランダ東インド会社はその頭文字を 取ってVOCと呼ばれています 。オランダの連合東インド会社はイギリス に遅れて設立されましたが、今日に見 られる株式会社の始まりと目されている 理由は東南アジア貿易のようにリスクも 高くその事業に莫大な資金が必要な冒険 事業でかつその活動によって莫大な富を

35:08 もたらし得るような事業はスペイン ポルトガルなどは国営事業として行われる のが当時は普通でした。それに対して オランダの東インド会社は国から独占事業 の特許は取っているものの、資金は商人 たちの趣旨によって賄われているのです。 資本金額は約 6万グル点で当時の川せ相場で換算すると イギリスの東インド会社の第1回公開時の 約10倍の規模であったと言われています 。また株主の責任は出資の範囲の有限責任 性を取っている点も画期的でした。これは 今日の株式会社の大きな特徴です。そして

35:56 オランダの東インド会社の経営 は事業は取締まり薬会によって運営され ました。取り締まり薬会は6つの支部に よる代表者60名から構成されました。 そしてその取り締り役を監督する役割を 17人会という従約会が務めるという形で 会社の期間が設けられています。こうして 今日の株式会社の原型と言える組織がこの 時代に作られていったのです 。こうした東会社の活動によって ヨーロッパにもたらされた東南アジアの 更辛料や砂糖といった産物はオランダ経済 を潤し各地で定期位置が開催されるなど 交理業の発展合わせて促しました。そう

36:45 すると継続的に事業を行うことが一般化し ていったのです 。さて、16世紀から17世紀にかけて ルカパチよりのス馬の福式簿記部分を解説 した書物がオランダで多く出版されました 。その結果福式簿記がイタリアから オランダに電波し、連合東インド会社でも この計算システムによる会計算が行われ ました。連合東インド会社は大きな組織 でしたし、現在のインドネシアの ジャカルタ、当時はバタビアと言われてい ましたが、そこに統括視点を設けて現地に 散らばる四天毛の管理から本国への報告。

37:31 もちろんこれには会計報告も含まれます 。このようなことを行いました。江戸時代 に入った日本では1609年に平戸に召喚 を開き、1641年に長崎の出島に移った 後、爆末まで召喚は存続しましたが、ここ でも会計は福式簿記で行われていました。 この長崎の出島の召喚はバタビアの統括 視点の視点にあたります。このような視点 を持つ東会社では事業全体を把握すること が会計に求められたわけです 。さて、それでは当時のオランダで実践さ れていた簿記にはどのような特徴が見 られるのかということですが、オランダの

38:18 商人たちが継承したのはベネチア簿記では なくフィレンツ簿記でした。オランダでは 資金重要の高い大掛かりな事業が展開され たことで家族親族以外の第3者が出資する ケースが多かったからと考えられます。 特に連合東インド会社は初めから多くの 商人が資本参加する形で資金を集めたわけ で、株式会社でしたので事業活動の全体を 把握した上で厳密に損益計算を行いそれを 趣旨者に報告する必要がありました。これ を可能とするのがフィレンツ簿記だった わけです。ただ連合東インド会社といえど 公開ごとに決算を行う当座企業としての 性格を持っていましたので設立当初は定期

39:05 的な決算は行われていません。しかし、 決算報告の必要から事業を始める前と事業 が終わった後のそれぞれのプラスの財産と 借金などのマイナスの財産を調べて事業が 持つ純としての財産を計算して初めと 終わり、つまり機種に比べて期末の純資産 がどれだけ増えたかで損益計算を行ってい ました。そしてその結果をビラチと呼ば れる財産目録を作って報告をしたのです。 さて、オランダ本国では先ほどお話しした 通り、俺や東南アジアからの物産を 売りさく定期位置が格協定し、自動接点 なども上態化してきました。そうすると

39:51 事業継続が当たり前のようになり、また その事業が他人同士の資金を集めて行われ ている場合には定期的ではないにせよ途中 途中で暫定的な決算が必要になってきます 。そういう経済環境の中で福式簿記は活用 されていましたので、だんだんと15世紀 にイタリアで実践されていたものから さらにオランダの事業活動に役立つ工夫が 行われるようになりました。こうした工夫 は簿記書で解説され、それを読んだ商人が 実践に使うという形で電波しました。 つまり初めはイタリア式簿記の解説であっ たものから時代が住むにつれてだんだんと 内容が充実した牧書が観光されるように

40:37 なってくるのです。その1冊がスライドに 示したステフィンの数学的録です。ここに は事業の初めから終わりまでの全体的な 損益計算を行うのではなく途中で暫定的に 期間を区切って損益計算を行うこと。決算 報告書を作成する前に会計帳簿を締め切り 、その期間に区切りをつけてその帳簿に 記載された感情科目を集計して生産表を 作ること。そして後財産目録に相当する ビランチをつまり状態表というその事業の 資産負債純資産の一覧表を作ることが書か れておりさらに収益と費用の項目を1つの

41:22 感情にまとめて一覧表にするというの時代 にはなかった決算報告の新たな形を示した のです。この時代には目に見える財産を 中心とした損益計算が用いられていました ので収益と費用の集計表は状態表で計算さ れた損益額を検証するという補足的な情報 に過ぎま過ぎませんでしたがこの17世紀 には現代の損益計算書の方が見られるの です。 続いて18世紀から19世紀に時代を進め ていきましょう。舞台はイギリスです。 この時代はイギリスにおいて第一次産業 革命が起こり、企業組織も企業活動の具体

42:10 的なあり方も大きく変化をし、さらにその 影響が社会全体へと波及した結果、社会の 構造そのものがそれまでとは異なるものに なったというまさに画期的な時代です 。16世紀、17世紀にかけて黄金時代を 王化したオランダは徐々にその勢いを 落としていきます。それに変わって勢いを 耐えさせることなく発展を続けたのが イギリスです。イギリスは元々は羊の国、 贈り者の国でしたが、ヨーロッパに キャラ子というインドさんの面折おり物が 入ってくると主力商品を脅やかすほどの 売れ行きとなりました。

42:57 イギリスは初めはインドから完成品を輸入 してヨーロッパで売りさきましたが、この インドさんキャラは株式市場にバブルを 作り上げるほどの熱狂ぶりを見せたため、 イギリス政府はインドからのキャラコ製品 の輸入を禁止しました。しかし需要はある わけですから、密友が行われたり、 オランダ経由でインドさんキャラを輸入し たりする事例が相ついたのです。度々政府 から禁止例が出されたため、面輸入禁止に 対する対抗措置として商人たちは当時植民 地であったアメリカ深の島々で プランテーションを作り、そこで面を育て て民子を元に確保してそれを国内で製品に

43:44 して国内外で売るというように方向転換を したのです。オ製造業が近代のものへと 展開されているさです。それまでは脳村の 余剰労働力を使って内工業として作られて いた折り物製造が需要に押されてその製造 を集中的に行う工業性内工業へと進化して いったわけですが、18世紀半ばには食器 や防石期の発明、ついで蒸気機関の発明に よって動力を得るという年型の向上性機械 工業へと発展していきました。 工場を作り、当時最新式の機会を入れる ためには当然お金がかかりますね。従って

44:32 そういう事業を行うための資金を集める ために株式会社が利用されたことは言う までもありません。もうすでに証券市場は 存在しており、利益を生み出す事業を探す 投資家たちもたくさんいるわけですから。 スライドに示したように資金が特定の事業 化の元に集まることは必然的な結果だった わけです 。投資資金をたくさん集める人たちのこと を資本化と言うとすれば、そういう資本化 は生産が利益及び利益が利益及びさらに それを蓄積するというサイクルを作り上げ ます。こうした資本化が単に折り物産業 のみならず事業を高く化したり資本化同士

45:17 が協力関係をつなげばもはや様々な市場で 独占状態を作ることができるほど巨大化し ていくわけです。こうした経済の活性化は イギリス国内のみならず対ヨーロッパや対 植民地に対しても波及しイギリスの証券は 広がっていきます 。そうした資本家たちが運営する事業で 行われていた会計は16世紀、17世紀に オランダを中心でオランダを中心に行われ ていた内容をさらに発展させるものでした 。その理由は会計を行う主体である 株式会社の制度が前の時代よりしっかりと 定着したからです。福式簿記とそれを行う 会計行為は株式会社それも巨大で複雑化し

46:07 たところで行われてこそその本来の機能を 発揮することができるのです 。ここで株式会社についてまとめておき たいと思います。というのも18世紀は 今日の企業につながる事業形態としての 株式会社が成立する時代だからです。 株式会社の特徴はその事業の活動を通じて 利益を生み出すことを期待した人たちが 資金を合わせて事業を 行うという組織であるという点です。古は 1600年に設立されたイギリスの東 インド会社やその2年後に設立された オランダの連合東インド会社です。これら の会社は設立当初は1公開ごとに決算をし

46:52 て会社の財産も利益も全て生産した後、 また次の公開のために資金を集めて事業を 行うという当座企業の性格を持っていまし た。ただオランダとイギリスの違いは前に も話をしましたが、オランダの連合東 インド会社が有限責任性や株式会社の譲渡 が可能であったりといった現代の株式会社 に近い特徴を持ち かつ会社の運営についても17人会や 取り締まり薬といった会社の期間を設け 組織的に運営ができる仕組みを持ってい ました 。さらにオランダは連合東インド会社が

47:39 設立される以前から多くの東インド貿易を 成功させていたのに対してイギリスの東 インド会社は設立事態はオランダのそれ より2年早かったとはいえ経営に参加した 商人たちは未だ東インド貿易に実績を持た ないものたち で資本規模も会社の組織もオランダに比べ て脆弱なものでした。 が2年早いためイギリスの東インド会社を 世界初の株式会社として取り上げる向きも あります 。確かに株式を発行して他人の資金の拠出 を受けるという点については現代の 株式会社に通じる初めてのケースと言える

48:25 でしょう。しかしその実態を見れば設立後 50年ほどは東インド貿易は常にオランダ に劣星を強いられる結果でした。1623 年に日本からイギリスが撤退した背景には このような両国の東インド会社の組織力の 違いが現れているのです。しかし、インド 経営に専念することにしたイギリスの東 インド会社は1657年に組織改革を行い 、それまで限定された承人だけが出資する という資金調達方法を改め、広く一般から 資金を募る方式に変えました。株主の数も 増え、株主総会を開催する必要が出てき

49:13 ます。またすでに実態としては継続的に 事業を行っているにも関わらず決算は当座 企業であるかのように1公ごとに出資額も 利益も全て生産するという配当方法を取っ ていたところを変更して事業の果実である 利益だけを株主に配当するようにし出資額 は会社に残して事業活動のための原子とし て維持する方式に変更しました。この段階 に至ってイギリスの東インド会社は 株式会社としての本来の形式を整えたの です 。この段階で株式会社の基本的な形が見え てきましたのでそもそも株式会社の組織と

50:00 会計報告との関係を説明しておきましょう 。株式会社は不特定多数の投資家から資金 を集める仕組みですから、その投資家の数 が多くなればなるほど実際に経営に携わる ものと資金だけを拠出するものとに役割が 分割していくことが予想される組織です。 現代の株式会社はまさにそういう状態で 経営の実務を担当する経営者はその会社に 資金を拠出している株主の集まりである 株主総会から経営を任されている代理人に 過ぎません 。代理人である経営者は株主総会によって 任命されるわけですからその進任を受け なければ事業を行うことができないのです

50:48 。そのためこれら両者の信頼関係を維持 するツールとして会計情報である財務所表 、つまり決算日現在その株式会社が保有し ている財産の一覧表である貸借対象表と その一定期間に企業が活動した事実を数値 に凝縮して示した損益計算書があるのです 。スライドにあるように財務諸表は企業 資本の運用を委託された経営者がその委託 をした株主に対して事故の経営責任の遂行 状況を説明するためにあるのです。こうし た遂行される経営者の責任のことを アカウンタビリティと言います

51:34 。今お話ししたことは現代の企業において 会計が行われる根拠を示す重要な考え方な ので図で説明しておきましょう 。企業は活動を行っていくためには資金が 必要です。そのため企業経営者は株主から 資金の委託を受けてつまり資金を受宅して その資金を使いながら事業を行っていき ます。 この両者の資金の住宅委託の関係は経営者 にとっては資金を受宅したものとしての 義務、そして株主は資金を委託したものと しての権利が生じることになります

52:24 。この資金の委託を受けた経営者は委託さ れた資金の管理、保全運用を行う責任を 負うことになります。この責任のことを 受宅責任と言います 。この経営者が追っている住宅責任はこれ を遂行したということを説明しなければ 解除されることはありません 。つまりその住宅責任を解除しようと思え ばちゃんと住宅責任を遂行したということ を説明する責任もまた生じるわけです。 この責任のことを会計責任と言います。 アカウンタビリティです

53:12 。この会計責任の遂行は現代の株式会社に あっては株主総会において会計の決算書を 開示し、そしてそれが総会において承認さ れることによって遂行されるのです 。さて、イギリスの東インド会社は 1750年代の組織改編を経て経営が安定 し、そして株式の価格も順調に推移してき ました 。そして18世紀に入る と順調なアジア貿易に対抗するかのように 今度は西インド諸島と南アメリカに対する 貿易熱が高まってきます。そこでアフリカ

54:00 から西インド諸島に奴隷を送り、面を作る ためにプランテーションを作れば、そこ から面をイギリスに輸送してイギリスで面 品を作れるという計画が持ち上がりました 。その計画を独占的に担う会社として設立 されたのが南海会社です。ところが、当時 南アメリカはフランスの強い支配にあり、 南海会社は大きな成果を作ることができ ませんでした。 ちょうどその時期スペインの多い継承を 巡ってフランスとイギリスは光戦状態に あり、その戦のためにイギリスは大変な 財政でした。そこでイギリス政府はその

54:45 財政を国際を発行することで乗り切ろうと 考え、その国際を引き受ける会社として 国策として設立しながら成果の上がらない 南海会社を利用しました。段階会社は政府 国際を引き受けるとともに政府国際を所有 する個人に対し て国際を買い取る代わりに南海会社が 支払った代金で南海会社の株式を買うよう に勧誘しました。そうすると証券市場に おいて南海会社の株式需要が高まって株価 が上がると考えたのです。株価が上がれば 次に南海会社が株式を発行する時にはそれ

55:30 まで以上に他額の資金が会社に入ってき ます 。思惑通り南海会社の株価は上がり本業の 貿易事業は思わしくないにも関わらず 南海会社が政府の後押しを得て南アメリカ のペルーキン山の開発を手掛けるのでは ないかなどという噂も立つようになるなど 人々の値上がりの期待値だけで株価が 上がっていくという状態つまり南回バブル と言われる状況が作り出されたのです。 この南海会社の株式 に国王大臣議員裕福な商人や主のみならず

56:17 一般の姿勢の人々や日々の生活に困るよう な人々でさえ借金をしてまで投資したと 言われています 。株式投資に強乱した人々は南海会社以外 の類事の会社に対しても同じような期待を 挑株式を買いました 。アフリカ貿易や南アメリカ貿易を加立て て新たに設立される会社やこうした市場の 同行を当て込むだけの怪しげな会社が次々 と設立されたことで投資行動がさらに加速 するという状況に陥りました 。しかしこのような人々の熱狂によって 作り出された急激な株価の後等は実態を

57:03 反映したものではないため急激に下落の道 をたどることになり証券市場は混乱に陥り ました 。イギリスではこの南海末事件を気に共同 出資による株式会社に相当の懸念を抱き、 これ以降法末法という法律を制定して共同 趣旨の株式会社の設立に慎重な姿勢を取り 100年余に及ぶ思考錯誤の結果1844 年に株会社登期法が制定されます。これが 現在のイギリスの会社法の前進です 。この会社法では株式会社の設立について

57:52 従来行われていた認可性の代わりに法の 規定に順ずることにより会社が設立できる 純則法が導入されましたが同時に会社の 財務内容を詳細に明らかにすることが求め られました。ここにおいて初めて退借対象 表が法律に基づく制度として規定されたの です。まさに近代会計制度の始まりと言え ます 。近代的な株式会社が設立されるように なり、第一次産業革命を経て向上請工業へ と産業は発展しましたが、それによって 会計行為はどのように変化していったの でしょうか?事業はすでに継続企業化して

58:39 おり、そこで行われる会計では機関損益 計算を定期的に行う時代に入っています 。先ほども述べたように所有と経営の分離 が進んでいっていますので前の時代より 会計報告の重要性は高まっています 。しかしそういう時代になっても会計報告 の基本的な形は前の時代から継承された もので機種と期末の資産負債純資産を残高 と呼ばれる貸借対象表にまとめて両者を 比較することで利益を計算する形式で ストック計算による損益計算が行われてい ました

59:24 。これに対して事業の活動状況を示す収益 と費用による損益計算は貸借対象表で計算 された利益額が数字的に正しいものかどう かを確かめるためのものでしかありません でした 。こうした従来型の会計報告に対して変化 をもたらしたのが実務からの要請です 。19世紀近くになるとイギリス企業は北 アメリカ大陸との事業が増えイギリスさん の製品を向こうで売りさくために代理店に 対して委託手数料などを処理する必要が出 てきました。また国内においても製造工場 のみならず鉄道建設や運河会社の

1:00:11 運営石炭採掘事業など何年にも渡り使い 続ける資産。これを固定資産と言いますが 、こうした資産の会計処理をどうするかに ついて従来の処理法の矛盾が指摘される ようになってきました。長く使う資産を 購入時に全て一括して費用として処理して いいのかどうかといった資産と費用を巡る 問題です 。事業が変化発展すれば現実の事業の活動 を数値で明らかにする会計もおずとその 変化発展に応じなければ最終的に投資家 など情報利用者の意思決定に役立つ情報を

1:00:57 提供することはできません 。イギリスにおいて監査は1862年に 貸借対象表の作成が義務づけられた時に 同時に導入されました。しかし実務では すでに監査需要はあり、株式会社制度は 1844年に成立した会社法で導入されて いますので、事業活動の結果である会計 報告に真実性を求める投資家たちの監査に 対する要請がありました。しかも先ほど 述べたように19世紀に入ると北アメリカ 大陸との取引も多く大掛かりになっていき ます。投資家たちにとってアメリカとの

1:01:43 事業はドル箱的な投資先です。その最る ものが北リカで展開されていた鉄道建設 事業です。投資家たちは会計の分かる専門 家を現地に派遣して北リカでの事業の実態 を知る必要があったのです。 こうした実務先行の需要によって1853 年エジン原にスコットランド直去会計士 協会 がその次の年にロンドンにイングランド ウェルズ直去会計士協会が設立され イギリスにおいて監査を法制度に導入する 下地が出来上がり1866年の改正会社法 において監査制度が導入されました。

1:02:32 さて、時代は20世紀に入ります。 いよいよ現在株式会社が行っている会計の 直接的な理論的な基礎が整備される時代と なります 。その先駆がけとなったのがスライドに ある同的貸借対象表評論という書物です。 ドイツの経営経済学者シュマーレンバッハ が記した書物 で1919年に出版されました。 この書物のタイトルの同的とはどのような 意味かを知ることがポイントです 。貸借対象表は古くはビランチオ財産目録 である時点の事業が保有する資産負債純 資産を示す財務表でおよそ中世イタリア

1:03:20 時代から何百年にもわたって主となる財務 表であり続けてきました。そして福式簿記 はこの貸借対象表に示される資産負債純 資産だけでなく企業の努力と成果を示す 費用や収益をも捉えてこれら5つの要素が お互いに関係を持ちながら増加減少する 取引を記録計算するシステムとして用い られてきました 。貸借対象表も損益計算書もその福式簿記 の帳簿に記された数値を集計した結果の はずです 。ところがシュマーバッファがこの書物を 記した当時貸借対象表は帳簿数値とは離れ

1:04:09 て作成されていました 。そこでシュマレバッファは貸借対象表を 構成する資産負債純資産と収益と費用との 関係を引いては貸借対象表と損益計算書と はどのように関係づけるべきなのかを考え ました 。彼はまず損益計算とは何かを考えます 。最も正確な損益計算をしようとすれば、 それは企業が設立されてから生産される までの間に稼いだ利益の額、つまり全体 利益であるはずです 。しかし現在の企業は継続的に事業を行う 組織体として存在している。だから人意的

1:04:58 に期間を区切って損益計算をせざるを終え ない。そうやって計算されるのが機関損益 計算です。 とはいえ期間を人意的に区切っているだけ だからその区切り目つまり決算の時にその 期と次の木の間に必ず会計算上のずれが 生じるはずだというわけです 。そのずれて残っている項目を示している のが貸借対象表だと彼は考えました 。資産は決算の時点ではまだ事業活動に 使っていないので残っている。負債はまだ 返済していないので残っている。期間を 区切った時に未解決の項目

1:05:44 を示しているのだと 。シュマレンバッ波の考え方の基礎には 事業活動はずっと行われ続けているものと いう認識があります。つまり同的という 意味です。そして会計はその 継続される活動を数字によって描写する 行為なのだから動いている。つまり企業が 利益を求めて努力をし成果を上げるという 企業の本来の目的に照らすならばその活動 を示している収益と費用こそが主であり それを示すのが会計報告の本来の役割では ないかと考えました。活動は動いている。

1:06:30 その中で貸借対象表はその活動に無関係な まだ使われていない項目を表示して一定の 役割を果たしていると考えたという意味で 彼の論接は同的貸借対象表評論あるいは 同体論と呼ばれているわけです 。現代の企業会計はこうした考え方に 基づいて構築されています。そこで シュマー連バッハ派の同体論のポイントを 整理しておきましょう。まずそれまで財産 の一覧表として作成されていた貸借対象表 を企業そのものを示す収益と費用の観点 から再定義をしたという点です。資産も

1:07:16 負債も収益費用になる前の姿である とこうした収益費用を中心とした資産負債 の最定義によって明らかにされた貸借対象 表の性格はその期間の損益計算において未 解決の項目を収納する表であるということ でそこで表示される資産負債順資産は今 これらを生産したらいくらになるかという 債務返済能力ではなく、時期以降に起用 活動に使い収益を生み出す元を示している とする考え方へと変わっていったのです。 その上で貸借対象表は連続する当期の機関

1:08:03 損益計算と以降の損益計算等をつなぐ役割 を果たしていると考えました。それは本来 企業活動は日々動いているものであり、 それを利益を計算するために人意的に 区切ってしまうので、そのつぐ役割、 つまり連結間の役割を損益貸借対象表が 果たしているとする貸借対象表の機能に ついて新たな見解を示したわけです 。これによって収益と費用に基づく損益 計算を中心に据え長らく財産の一覧表で しかなかった貸借対象表の意義が転換さ

1:08:49 れることとなりました。従来の貸借対象表 は財産計算も損益計算も行う財務表と考え られてきましたが、この同体論によって 損益計算は損益計算書で財産計算は貸借 対象表で行うという役割分担と両者の明確 な関係が示されたのです。この考え方は 現代の企業会計の理論的基礎となってい ます 。さて、時代は20世紀に入りました。次 の舞台はアメリカです。20世紀諸島は ヨーロッパは受難の時期で、第1次世界 大戦によって経済は壊滅的な打撃を受け ました。それに対してこの対戦化の

1:09:37 ヨーロッパにおける様々な需要を満たした のがアメリカです。アメリカ経済は戦争景 によって未の後景器をしていました。その 内容はスライドにも示した通りです。後景 器は活発な企業活動と消費それを可能に するための資金を満たす投資家たちの投資 行動によって作られていきますが、この バランスが崩れると経済は良くない方向に 向かっていってしまいます 。アメリカのニューヨーク証券取引所に おいて、1929年に株価が大暴落し、 その後アメリカ経済が大教皇に陥り、その 余波が世界を駆け巡ったことは皆さんもご

1:10:24 存知だと思います 。この大教皇の原因は様々な要因が絡んで いますが、少なくともその原因の一端には 投資行動の加熱が上げられるでしょう 。ここでは企業会計に関係する点に限定 すると、当時アメリカでは企業が公表する 会計情報の作成と開示に関する厳格な基準 や法整備が十分ではありませんでしたが、 投資家はそういう会計情報を頼りに投資 活動を行っていました。そうすると南海 放末事件と累事する状況が生じるわけです 。イギリスで200年前に起きたことが 今度はアメリカで再び起きたということ

1:11:12 です 。同じようなことは繰り返され、日本に おけるバブル経済も時代や経済環境は 異なっていても同じような状況だったと 言えるでしょう 。こうした大皇の経済の混乱を収束させる ためにアメリカではニューディール政策が いち早く打ち出されたことは皆さんもご 存知かと思います。その一環として先ほど 述べた証券市場における会計情報開示を 規制する厳格な仕組みが整えられました。 1933年に証券取引委員会SECが設置 され、証券取引の安定と円滑を図る役割を 果たすこととなり、翌年の1934年には

1:12:01 現在の証券取引法と証券取引法証券2法と 呼ばれていますが、これらの法律が定め られました。このアメリカ証券取引法は第 2次世界大戦後日本に制定された現在の 金融商品取引法の全進である証券取引法の MODとなった法律です 。こうした大皇の経済の混乱を収束させる ためにアメリカではニューディール政策が いち早く打ち出されたことは皆さんもご 存知かと思います。その一環として先ほど 述べた証券市場における会計情報開示を 規制する厳格な仕組みが整えられました。

1:12:47 1933年に証券取引委員会SECが設置 され、証券取引の安定と円滑を図る役割を 果たすこととなり、翌年の1934年には 現在の証券取引法と証券取引法、証券2法 と呼ばれていますが、これらの法律が定め られました。このアメリカ証券取引法は第 2次世界大戦後日本に制定された現在の 金融商品取引法の全進である証券取引法の MODとなった法律です 。そしてそれまでの会計情報の開示法が 貸借対象表に記載する資産負債を時価で

1:13:35 記載し、不確実な未だ実現していない利益 をも含めて損益計算を行っていたという 方式を改め取得減価によって記載するよう にし、先ほどお話ししたシマーレンバッ破 の同体論の考え方に基づいて会計制度を 整備する方向に家事が切られたのです。 アメリカにおいては1930年代以降は アメリカ会計学会を中心として企業が遵守 すべき会計原則の作成と改定がなされ、 1950年代以降はアメリカ公認会警が その後を次、 1972年に現在の基準会計基準設定で

1:14:21 あるFASB財務会計基準審議会へと 受け継がれていきます。 現在アメリカは詳細かつ膨大な会計基準を 持つ会計大国です。しかしEUが国際財務 報告基準イファースを採用したことで本来 過酷ごとに異なるはずの会計基準を イファースに合わせようとする超和の動き があります 。アメリカは会計大国であることがこの 超和プロセスを進める障害となっており、 現在アメリカも日本も手詰まりの状況で あるということは先週内藤先生がこの講義 でお話しされた通りです

1:15:09 。今回は皆さんと約700年もの会計の 歴史を辿どってきました。福式簿記は承人 の英の決晶として成立し、経済活動のある ところ会計は実践されています。今の企業 会計が成り立っているのも福式簿記があっ てこそです。そして会計の歴史はその福式 簿記から作られる会計報告の役割の変化の 歴史でもあります 。そろそろ日本の大手企業は揃って株主 総会を開く時期になっています。 3月決算の会社の多くは6月末日近く資近 に一斉に株主総会を開きます。そこでは

1:15:56 必ず決算日現在の貸借対象表と前年度1 年間の損益計算書が開示されます 。これらの会計報告書は福式簿記により 日々の活動を記録した会計帳簿から数値を 誘導して作られています 。従ってこの基本財務所表と呼ばれる貸借 対象表と損益計算書は統計表でもなければ 一覧表でもなく下幣数値によって表現され た利益を追い求める企業の姿そのもので あると言えるでしょう 。それでは今週の課題です。え、これまで の授業を聞いて、次の問1から問3までの

1:16:41 それぞれに200時程度で答えてレポート にまとめてください。レポートの提出先は UNニIPAのレポートボックスです。 え、1つ目は福式簿記が14世紀から15 世紀においてイタリアで、え、成立したと いう風にお話をしましたけれども、当時の イタリア商人はなぜ正確な会計の記録が 必要であったでしょうか?そして2つ目 です。2つ目は、え、17世紀に、え、 ヨーロッパにおいて東インド会社が イギリス、オランダ、フランスなどで、え 、設立されましたけれども、え、その事業 組織はイタリア人のそれとはどのように

1:17:27 異なっていたかをまとめてください。 そして問さです。問さんは18世紀の イギリスにおいて生じた産業革命が、え、 事業の組織とそしてそこで行われる会計に どのような変化をもたらしたかをまとめて ください 。以上を持って社会と大学1第10回の 講義映像を終わります。皆さんさよなら。

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