0:01 社会と大学一応受行の皆さん、こんにちは 。今週のこの講議は先週の内藤先生の講議 に引き続き会計学に関する内容で私原田が 担当します。内藤先生は現在の企業会計の 制度がどのような動きをしているかについ て話されたと思います。私は会計の歴史 研究が専門領域なので、現在の企業会計の 基礎がいつの時代にどのような社会背景の もに作られ、そして発展してきたのかをお 話しします。つまり会計の歴史、特に利益 を生み出すことを目的とした事業の会計の 生成と発展の歴史をたどります 。今回の講義の流れです。まず会計の歴史
0:50 を具体的に見ていく前にそもそも企業で 採用されている福式簿記とはどのような 簿記のことを言うのかということをお話し します。そしてそれを踏まえて会計の歴史 の外観を確認します。そして後会計の歴史 を4つの段階を踏んで見ていきます 。まず福式簿記の発症の地であるイタリア において14世紀から15世紀にかけて 実践されていた福式簿記と損益計算の特徴 について説明をします 。次に16世紀から17世紀にかけて大 公開時代にオランダにおいて見られた会社 組織の発展の経緯とそこで行われていた 会計について説明をします。
1:38 続いて18世紀から19世紀にかけては第 1次産業革命時の会計ということ ですに計算システムとして確立している 福式簿記の計算システムからいかなる会計 情報を導き出すのかという機能的発展の 過程を取り上げます 。そして最後に20世紀ということで今日 の企業会計の理論的基礎をなす考え方で ある同体論についてその社会的な背景を 踏まえて説明をしたいと思います 。企業会計は事業の経済活動を何円といっ たその国の過幣単位を用いて記録しその
2:26 数値を集計しまとめて必要とする人や組織 にその情報を提供する一連の行為を言い ます。つまり会計とは記録をすることから 始まり一定期間にわりその事業の活動全体 を数値で集約する行為で単にお金がいくら あるかとか100円と200円を足して 300円と計算することにとまらないの です 。会計行為はおよそ事業体として経済活動 を行うことが一般化して以来、小管校とし て人々の経済生活にね指してきたものです 。そして事業がその活動を記録計算する
3:14 ために考案され実践されてきたのが福式 簿記という簿記システムです。福式簿記は 単なる簿記入の方法ではなく、事業の経済 活動を過兵数値によってトレースし、その 結果としてその活動の全体を数値によって 凝縮し表現する情報作成のためのツールな のです 。そしてその特徴は利益を計算するだけで なく同時平行で一定時点の財産のあり高を 計算できる仕組みを持っている。ことです 。この仕組みにおいては資産、国際、準 資産、収益及び費用の5つの要素の相互の
4:00 関係を維持しながら経済取引を2つの視点 から捉え、記録し、計算集計します。この プロセスにおいて2面、つまり経済取引を 2つの視点から捉えた結果を必ず均衡さ せるという貸借平均の原理を最初から最後 まで一貫させることによって財産計算と 損益計算等を同時に行うだけでなく会計算 の性格性を実現することができるのです。 現在のところ企業会計にとって福式簿記を 超えるこれより優れた計算の仕組みはあり ません 。特に事業の会計の歴史はこの福式簿記の
4:47 計算のシステムが成立するところから 始まったと言って良いと思います。単に 商売の計算をしたとかお金のデリーを記録 したという事実であればこのスライドに 書かれている現在から約700年を遡る 14世紀や15世紀よりずっと以前から 行われていたと想像されます が福式簿記の歴史から始まる会計の歴史は その計算の仕組みの元に基調された調簿 資料の存在によって立証されます。 総合政策部の皆さんが秋学器の基礎簿記を 利習されたらそこで福式簿記を勉強する ことになりますが、その現在の企業で採用
5:34 されている簿記は実に約700年前にその 基礎が成立していました。その基礎にある 福式簿記の核となる考え方を変えず、時代 を経て不要な手続きは削ぎ落として集約し 、現在は非常にシンプルな形で使われてい ます。社会経済活動が発展すればその計算 システムも複雑化すると想像されますが、 福式簿記の場合は逆にシンプルな計算の 仕組みを備える形で発展する結果となった ので、どのような経済活動も記録計算 できる仕組みとして今に至っているのです 。さて、こうした福式簿記の発展の特徴を
6:22 捉えたところでスライドに示した会計の 歴史の外を見てみましょう。現在企業で 行われている会計から遡ること約700年 前に福式簿記は成立しました。そこから約 400年をかけて事業の活動を記録計算 するにあたり勘定科目が整理され、簿記 処理の方法が改善され 、そして約200年かけて今日の企業会計 の直接的な基礎をなす会計の考え方が成立 し、その考え方に基づいて会計報告の 法整備化が進められてきました。つまり 会計の歴史を大きく2つに分けると福式
7:09 簿記の計算のシステムが昇集として実践さ れる中で徐々に構造的な発展を溶けていっ た時代と福式簿記という計算システムが 完全に成立した後に特定の経済辞書を いかに会計処理をしその結果として会計 報告書がいかなる情報を提供すべきかと いう機能的な発展を遂げた時代とに分ける ことができるのです 。そしてこの授業では取り上げませんが、 日本の状況も見ておきましょう 。日本に残する最古の帳簿記録は1500 年代の最後に作成されたものです 。それ
7:55 以降江戸時を通じて日本では独自の簿記法 が実践されてきました。この母器法のこと を和式町愛と言います。この和式町愛は 明治以降も一部の中小の焦点におい て戦前まで実践されてきました。 方明治に入り日本の近代化が進んでいく と副行地が西洋を日本に伝え 、特に大企業を中心に福式簿記が実践さ れるようになりました。そしてその福式 簿記が現代の企業に受け継がれているの です
8:41 。それではヨーロッパにおける福式簿記の 歴史に話を戻しましょう。このスライドに は福式簿記の電波の過程が示されています 。13世紀から15世紀にかけてイタリア で福式簿記が成立しました。そして16 世紀から17世紀にこのイタリア式の簿記 がオランダに電波し、ここで福式簿記の 基本的な形が確立します。そしてその後 18世紀から19世紀にかけて今度は会計 報告の発展が見られるのです 。そこでこの授業ではこれ以降この各国各
9:30 段階における福式簿記と会計の発展につい て見ていくことにしましょう 。それではここから各時代における簿記 会計の歴史を辿どっていきましょう。 最初に福式簿記の精世紀です 。福式簿記生誕の地はイタリアで13世紀 にはその方が見られ15世紀には成立して いたと言われています 。このスライドにはイタリアの地図を示し ましたがここには皆さんもご存知の年が見 られるかと思います 。これらの都市は中世紀には都市国家を 形成し、それぞれが独立して経済活動を
10:16 営んでいました 。そしてこれらの年にはいずれも福式簿記 発症の地と考えられるような当時の商人が 記した調簿資料が保管されています。 した募資料から当時の商人がどのような 簿記によって事業を管理していたのか、 そしてその事業内容はどうであったかを 知ることができます 。これらの都市において営まれていた事業 の中で特に帳簿資料が多く残されているの は金融業です。金融業者は債権と債務の 管理を行わなければなりません 。それらの資料のうち最も古いものは
11:05 1211年に作成された帳簿です。その 帳簿資料はイタリアフィレンの金融業者が 記したものですが 、利息の記録や経費の記録が見受けられ ます。ただこの資料は4ページしか残って おらず、そこで行われていた簿記の全体像 はもちろん福式簿記には必の感情と感情と の関係性までを見ることはできません。 従ってその時代にすでに福式簿記が行われ ていたとまでは言えません 。また大ле人が金融と商品売買業と兼ね ているケースもあり、業務の多化状態が
11:51 会計記録の必要性を高めていたことは 間違いないでしょう 。そしてまたジェノバでは市役所の財務官 が市が徴収した税金をどのように運用した かを後々市民に報告するために帳簿を作成 していたという事例も見られます。 いずれにしても生期ですからジェノマの 財務官の事例を除き多くは当時の商人たち が自分の事業を把握する必要と取引相手と の間で裁判になった時の兆証拠資料として 会計帳簿をつけていたと言われています。 従って現在のように勘定科目と数値と
12:38 わずかな駐のみで記録を行うという感想化 もなければ資産負債純準資産収益費用の 書き位置を定める借規則もない中 で文章形式でただ感情と感情とのつがりを 意識しながら事故の使い勝手の良いように 帳簿をつけていたと考えられます。 ではどうして福式簿記がイタリアで発生し たのか。次に当時のイタリアの初を巡る 社会経済の背景を見てみましょう 。現在ももちろんですがイタリアは当時 から地中会に面しています。つまり海運の
13:25 利があることがわかります。そして陸地は 東方へと向かう交通の要少です。 した海運や陸運の利が集中的に生かされた 出来事は11世紀に始まる十次軍の遠征 でした 。キリスト教の聖地の奪還を目指して ローマ教皇庁からの要請により西ーロッパ 諸国から兵士が退去してエルサレムに送ら れた出来事です。十次軍の遠征は13世紀 まで合計8階にわって行われました。こう した人的物な移動はその通り道である イタリアの特に北部の都市に経済従業需要
14:11 を引き起こしました。さらに地中会に面し ているために北リカとの地中会貿易も盛ん で当時のイタリア北部の都市は経済発展が 生じる要因がいくつも見られたのです 。地中会貿易は商人だけでなく、例えば 先ほどお話ししたジェノバシー成長も近隣 の都市国家などとの戦争費用を賄うために 積極的に貿易を行い税収を運用している ことが帳簿資料によって明らかになってい ます。会計帳簿には北アフリカから 買いつけたごまや更新量を感情を立てて 記録をしその売買の天末まで計算した結果
14:58 が記されています。とはいえこのような 経済環境化において活躍の中心をなしたの が金融業を営む商人たちです。特に フィレンツは金融業で栄え、その金融業者 の中には莫大な富を手にするものもいて、 そうした承人は本業である金融業のみなら ず、商品売買業など事業の多化を図りまし た。こうした例として1300年代に1台 にして許学の富を作り上げたメディチケが 上げられるでしょう 。こうした金融業者は視点をイタリアの 国内のみならず他の国々にも設けて活動し
15:44 ました。14世紀当時ヨーロッパ1の力と 権力等を握っていたローマ教皇庁は フランスのアビニオンにありましたので もちろんそこにも視点を設ける他ロンドン にもジュネ部にもそれぞれ視点を設けてい ました。こうした国をまたぐ今でいう インターナショナルな取引は通過間換算の 必要もまたその場所において資金重要も 高く金融業は経済活動が回っていくために 不可欠な業種だったのわけです。従って 金融業者はこうした視点の運営も含めて 自分の事業の全体を管理するために簿記は 欠かせないものであったわけです 。そしてここではその事業のあり方に注目
16:30 してみましょう。株式会社制度などない 時代に商人たちは事業を行うための元出手 となる資金を他人に借りる以外にどのよう に集めたと考えますか?自分の財産を事業 に投じる。自分の財産で足りないければ 家族のあるいはもっと対象を広げて親族に も財産を出してもらうですね。 もう1つは自分の財産も出すが自分が 仲良くしているあるいは同じように事業を やりたいと考える仲間を見つけて財産を 出してもらうです 。中世イタリアの初都市では商業が どんどん発達し、経済が大きくなっていく
17:15 。そうした中で資金需要が高まっています 。しかも地中海貿易などは大きな船を 仕立てて北リカと往復するなど大掛かりな 事業です。リスクも高いけれどリターンも 大きい。そういう事業が展開されていた わけですから、個人的な財産だけでこうし た事業を行うことは難しく、商人たちがお 金を出し合って事業を行うということは 必然であったわけです 。家族、親族で財産を出し合って活動する 組織体を解えたす合組織と言います。これ に対して自分と自分以外の他人の資金を 合わせて活動する事業を マグナソエタス合子組織と言います。
18:02 ベネチアではソキエタスがフィレンツでは マグナソキエタスが見られたと言われてい ます。この事業体の構成の違いがそこで 行われる会計算の目的や福式簿記の内容に 違いをもたらしたのです 。このスライドに示したのは1494年に 印刷本として観光された数学書3術機下日 及び比例相談 略下て馬と呼ばれている書物の扉です。 1440年頃、ドイツでグーテンベルグが 活板印刷機を発明し、聖書や気当者などの キリスト教の書物を中心に印刷が行われて いましたので、数学書として観光された
18:48 この書物は印刷本としては早い時期のもの です 。この著者は右の頭に示したルカパチと いう人物です。見た通り生職者でかつ数学 者でもあります。ここでこの書物とその 著者をスライドに示したのはこの書物が 世界で初めて福式簿記を印刷本によって 広く世にしめたからです。つまりこの書物 の中に福式簿記を解説する部分があった わけです。この書物は全体で600ページ を超える対策ですが、福式簿記の解説に 咲かれたページは30ページほど。しかし
19:34 そこには詳細に15世紀当時のベネチア 承人が行っていた福式簿記の全体像とそこ での細かな処理方法が解説されています 。ではなぜ数学者であるルカパチーよりが 福式簿記のことを知っていたのでしょうか ?ルカパチよりはそうになる以前の19歳 の時にベネツアで大人であったアントニオ でロンピアジという人の思の家庭教師とし て雇われました。すでに数学の知識を持っ ていたパチお家庭教師で働いている時に ロンピアジの店で行われていた福式簿器を 知ることになるのです 。その後ルカパチよりはローマへ移り
20:23 フランチェスカに入り修道層となります。 そして生殖者として 働く傍イタリア各地において大学や学校で 共弁を取り数学に関する著書を出版します 。 こうして出版された書物の1つが寸馬です 。そしてまた様々な知識層との交流におい てレオナルドダヴィンチとも信仰を結んで います 。ス馬はそれが印刷本であったことでその 後のヨーロッパに福式簿記の技術を伝える 役割を果たしました 。ルカパチよりスンマで記したのは当時 ベネチア商人が行っていた典型的な福式
21:09 簿記の姿です 。において福式簿記に関する記述はたった 30ページではありますが、そこに記され た内容は36項目に渡るもので、この スライドにあるように現在の企業会計に見 られる様々な手続きを含んでいるものです 。例えば丸1の財産目録の作成ですが、 この財産目録は現在の貸借対象表の原型 です 。一定時点におけるその事業が持っている 全てのプラスマイナスの財産を一覧にした ものです。そして丸2の仕訳の作成ですが 、福式簿記が事業が行う経済活動すなわち 取引を1つ1つ記録していくところから
21:55 始まる。その最初の手続きを示す帳簿が 仕訳町です。そして丸さの相関元長は丸2 の仕訳町に記録されたそれぞれの取引を 現金や預金商品といった感情化別にその それらの増加と減少を計算するための帳簿 です。現在の企業会計においてもこの丸2 と丸3の帳簿は主要簿として作成され、 貸借対象表や損益計算書といった会計情報 にデータを提供するためのソースとして 存在しています。そして丸後の名目感定と 物感情というのがありますが、福式簿記は 資産負債純資産といった物感情と収益と
22:42 費用といった名目感情とが相互に関係を 持ちながら事業の経済活動を記録計算して いく仕組みですからこれら5つの要素は 福式簿記にとって必の構成の要素構成要素 です。ルカパチよりの時代にはすでにこれ らの5つの要素が考案され、実務で使用さ れていました。次に丸6の損益計算ですが 、この時代は事業を行う前の財産目録に 記された総材と事業がを行った後の相材を 比べてどれだけ増えたかという損益計算を 行っていました。そして丸7ですが、この 時代においては事業によっては1つの事業
23:30 を行うたびに事業を解散し、また別の事業 を行うために新しい事業を作るという当座 企業としての性格を持つものがたくさん ありましたが、他方において次の世代へ 事業を引き継いでいくために継続的に事業 を行う組織体も存在していました。そう すると一定の時期に仕訳や相関元庁を 締め切り利益を計算し、そして使い残した 財産は次の木へと繰り越していく必要が出 てきます 。こうした現在の企業会計で行われてる 処理についても説明がなされているのです 。このことから現在のように1年の最後に
24:16 決算を行うという定期的なものではなかっ たにせよ決算を行い財産の計算と損益の 計算等を行っていたということがこの記述 から分かるのです 。それでは次に15世紀当時のイタリアに おいて事業を行っていた組織体がどのよう な授業形態を取っておりそこでどのような 会計を行っていたかその特徴についてお話 をしていきたいと思います。先ほどお話し したベネチアとフィレンツでは異なる事業 隊が見られました。ベネツアでは家族親族 同士が資金を出し合って事業を行う同族 経営すなわちソエタスという特徴を持つ 事業でした。この組織では親族感で利益に 対する権利を持っており、さらにお互いが
25:03 お互いを知る間柄でしたので厳密な損益 計算はそれほど重要ではなかったと考え られます。むしろここではその組織が 取り扱う商品のどれがどれほど売れている のか商品別の損益計算を行う。その結果を 会計記録から知ることで細かな経営管理を することができる。そう考えるならば口別 損益計算を行えばその会計の情報は経営に 役立ちます 。それに対してフィレンツでは自分の家族 親族のみならず他人からも資金を集めて 事業を行うマグナソエタスです。ここでは 利益が出た場合には出資者は出資の割合に 応じて利益配分を受けるわけですから損益
25:50 計算もシビアになってきます。ちゃんと 納得できる結果報告と正確な利益数値を見 ないと出資者は納得できません 。こうした他人も入った出資者全体の納得 を得るために作成された財産の一覧を示す 情報はビランチオと呼ばれるもので事業を 始める前のビランチオの純額としての財産 額が事業を終えた後にどれだけ増加したか によって利益を計算するという方法が取ら れました。こうした損益方法は現在では 財産法と呼ばれビランチオは現在の貸借 対象表の原型と考えられています。 これら2つのタイプの事業において当時 行われていた簿記はいずれも福式簿記でし
26:36 たが損益計算方法が異なります。 ソケエタスが多く見られたベネチアと マグナソケエタスが多く見られた フィレンセとそれぞれの場所で実践されて いた簿器をイタリア編のまとめとして示し ておきましょう。この点はその後の時代に 受け継がれていきます 。まず両者の共通点は福式簿記によって 会計を行っていたということの他、地中会 貿易のように当時はまだリスクの高い冒険 事業であった場合も、また同族組織のよう にその事業が活動期間を設けず継続的に 存続している場合にも損益計算を行う決算
27:22 が定期的に未だ行われていないということ です。ただここでは定期的ではないにせよ 決算が行われていたという事実は重要です 。福式簿記はまさに損益計算のためにその 特徴を生かせる計算システムだからです。 そして既でに述べたようにベネチア簿記は 経営管理の必要が高いことから事業全体と いうより商品別口別の損益計算が行われて いたのに対してフィレンゼ簿記では合子 組織の生産解散にあたってその事業の全て の活動について損益計算を行う。これを 全体損益計算と言います。不定期である
28:11 ことはソキエタスと変わりません。しかし このマグナソキエタスでも不定期ではある がその期間に行った全ての活動を記録する ということが重要です。というのも現在の 企業会計では一部の項目の増加減少だけを 把握する部分的な記録計算をするのでは なく閉で把握できる企業活動の全てを把握 しているからです。 つまりこのフィレンツ式簿記で行われてい た全体損益計算がその後の時代に行われる ようになる機間損益計算の初期的形態で あると言えるのです 。それでは時代を先に進めていきましょう
28:59 。16世紀から17世紀の大公開時代に 入っていきます。このスライドはこの時期 にすでに開拓されたヨーロッパから太平洋 、そして東南アジアに向かうコ路を示して います。よく見るとスペインポルトガル から線がたくさん出ているのが分かります 。世界史を勉強した人はお分かりかと思い ますが、ヨーロッパから遠用コ路を世界に 先立って開拓したのはスペインポルトガル ですね。それは極東の地日本の種ヶ島に いち早く到達したのがスペインポルトガル の選教士であったことからも明らかです。 彼らは未開拓な地にキリスト教を不教する ために春バル海を超えてやってきました
29:45 。これらの後開拓は1400年代に始まり 、1500年代にはここに示された矢印の 通り地球を一周しています。そして16 世紀から17世紀には緑のルートが 南アジアから延長され、東南アジアに 向かうコ路として確立します。大公開時代 はこうした後路延長の上にヨーロッパが 東洋の産物文化と遭遇する新しい時代の 幕明けとなったのです。そこでこの時代に 商業の中心として一時代を築づき、江戸 時代鎖国家の日本にとっても唯一お 付き合いを続けたヨーロッパ国である オランダを取り上げます
30:31 。16世紀から17世紀にかけてオランダ は黄金の時代を迎えています。オランダは 元々はスペインの支配にあって、財政に 苦しむスペインに近金をもたらす存在でし たが、そのために銃勢が重されるなど長く スペインの圧点に苦しめられてきました。 オランダの南部フランスと間に接する フランド地方は恐利者によって経済的に 抱えた地域でしたが、スペインの貸す従税 と厳しい宗教弾圧によって商人たちは スペインに対して恨みを持ち、宗教改革が 進む北部の商人と休合してスペインに対抗 し独立戦争を仕掛けます
31:16 。最終的に独立戦争を指揮したのは オランダの相徳としてスペインから統地を 任されていたオラニエコウィレム一世です 。オランダはオラニエコをいただき80年 戦争と呼ばれる長期にわる戦争を経て スペインから独立を勝ち取りました。そう した政治情勢が流動的な時代ではありまし たが、スペインとの戦争によってオランダ 南部のアントアプなどの主要都市が被害を 受けたため、商人たちが新しい活動拠点を 公案都市アムセルダムに移し、その血の利 を生かして国際都市へと発展していき、 オランダはヨーロッパ最大の船舶数を誇る 貿易大国となったのです
32:02 。スペイントの80年戦争のさ中にあって もオランダの海外進出への動きは非常に 活発で順調に先ほどの地図に見られるコ路 を確保して東南アジアまで証券を広げて いきます。オかつての葬国であった スペインポルトガルは海上派遣をイギリス とオランダに取られ、南アジア、東南 アジア貿易は後から伸びてきた。この2国 を中心とした私な争いへと向かっていき ます 。このようなアジアの海を舞台とした派遣 争いの実動を担っていたのが東インド会社 です。オランダの連合東インド会社は イギリスに遅れること1602年に設立さ
32:48 れました。イギリスの東インド会社は 後ほど触れますので、ここではオランダの 東インド会社の外を説明します 。この会社は1602年以前にすでに東南 アジア貿易を計画していたいくつもの 組合い企業が合併して設立されたものです 。最初に設立されたのが1594年の遠国 会社カンパニーファンフェイレです 。9人の商人たちが資金を出し合って作り ました。この会社は高路確項のために何度 か後悔を計画しますが失敗しました。しか しながら次に1597年にアモステルナム に 新公会社ノイエコンパニーファンフェレが
33:35 設立され、間もなく遠国会社と合併し、 1598年にインドネシアのジャ和島に 到達します。この公開会社は現地で大量に 更新量、つまり考量と故障などを仕入れ ヨーロッパに持ち帰えると400%の利益 を生み出したと言われています。特に利益 を生み出したのは考量です。このためこの 成功を気に最大で14の公開会社が競って 東南アジア貿易へと進出したため、更新料 の仕入れ価格が跳ね上がりヨーロッパでの 販売価格が下がってしまい、同じ国の中で の競争が国益に与える負の影響が危惧され
34:22 ました 。そこでオランダ議会は14の公開会社を 合併させ、1602年に連合東インド会社 を誕生させたのです。東インド会社の名称 の前に連合とされているのはこうしたいく つもの会社が集まってできたからなのです 。オランダ東インド会社はその頭文字を 取ってVOCと呼ばれています 。オランダの連合東インド会社はイギリス に遅れて設立されましたが、今日に見 られる株式会社の始まりと目されている 理由は東南アジア貿易のようにリスクも 高くその事業に莫大な資金が必要な冒険 事業でかつその活動によって莫大な富を
35:08 もたらし得るような事業はスペイン ポルトガルなどは国営事業として行われる のが当時は普通でした。それに対して オランダの東インド会社は国から独占事業 の特許は取っているものの、資金は商人 たちの趣旨によって賄われているのです。 資本金額は約 6万グル点で当時の川せ相場で換算すると イギリスの東インド会社の第1回公開時の 約10倍の規模であったと言われています 。また株主の責任は出資の範囲の有限責任 性を取っている点も画期的でした。これは 今日の株式会社の大きな特徴です。そして
35:56 オランダの東インド会社の経営 は事業は取締まり薬会によって運営され ました。取り締まり薬会は6つの支部に よる代表者60名から構成されました。 そしてその取り締り役を監督する役割を 17人会という従約会が務めるという形で 会社の期間が設けられています。こうして 今日の株式会社の原型と言える組織がこの 時代に作られていったのです 。こうした東会社の活動によって ヨーロッパにもたらされた東南アジアの 更辛料や砂糖といった産物はオランダ経済 を潤し各地で定期位置が開催されるなど 交理業の発展合わせて促しました。そう
36:45 すると継続的に事業を行うことが一般化し ていったのです 。さて、16世紀から17世紀にかけて ルカパチよりのス馬の福式簿記部分を解説 した書物がオランダで多く出版されました 。その結果福式簿記がイタリアから オランダに電波し、連合東インド会社でも この計算システムによる会計算が行われ ました。連合東インド会社は大きな組織 でしたし、現在のインドネシアの ジャカルタ、当時はバタビアと言われてい ましたが、そこに統括視点を設けて現地に 散らばる四天毛の管理から本国への報告。
37:31 もちろんこれには会計報告も含まれます 。このようなことを行いました。江戸時代 に入った日本では1609年に平戸に召喚 を開き、1641年に長崎の出島に移った 後、爆末まで召喚は存続しましたが、ここ でも会計は福式簿記で行われていました。 この長崎の出島の召喚はバタビアの統括 視点の視点にあたります。このような視点 を持つ東会社では事業全体を把握すること が会計に求められたわけです 。さて、それでは当時のオランダで実践さ れていた簿記にはどのような特徴が見 られるのかということですが、オランダの
38:18 商人たちが継承したのはベネチア簿記では なくフィレンツ簿記でした。オランダでは 資金重要の高い大掛かりな事業が展開され たことで家族親族以外の第3者が出資する ケースが多かったからと考えられます。 特に連合東インド会社は初めから多くの 商人が資本参加する形で資金を集めたわけ で、株式会社でしたので事業活動の全体を 把握した上で厳密に損益計算を行いそれを 趣旨者に報告する必要がありました。これ を可能とするのがフィレンツ簿記だった わけです。ただ連合東インド会社といえど 公開ごとに決算を行う当座企業としての 性格を持っていましたので設立当初は定期
39:05 的な決算は行われていません。しかし、 決算報告の必要から事業を始める前と事業 が終わった後のそれぞれのプラスの財産と 借金などのマイナスの財産を調べて事業が 持つ純としての財産を計算して初めと 終わり、つまり機種に比べて期末の純資産 がどれだけ増えたかで損益計算を行ってい ました。そしてその結果をビラチと呼ば れる財産目録を作って報告をしたのです。 さて、オランダ本国では先ほどお話しした 通り、俺や東南アジアからの物産を 売りさく定期位置が格協定し、自動接点 なども上態化してきました。そうすると
39:51 事業継続が当たり前のようになり、また その事業が他人同士の資金を集めて行われ ている場合には定期的ではないにせよ途中 途中で暫定的な決算が必要になってきます 。そういう経済環境の中で福式簿記は活用 されていましたので、だんだんと15世紀 にイタリアで実践されていたものから さらにオランダの事業活動に役立つ工夫が 行われるようになりました。こうした工夫 は簿記書で解説され、それを読んだ商人が 実践に使うという形で電波しました。 つまり初めはイタリア式簿記の解説であっ たものから時代が住むにつれてだんだんと 内容が充実した牧書が観光されるように
40:37 なってくるのです。その1冊がスライドに 示したステフィンの数学的録です。ここに は事業の初めから終わりまでの全体的な 損益計算を行うのではなく途中で暫定的に 期間を区切って損益計算を行うこと。決算 報告書を作成する前に会計帳簿を締め切り 、その期間に区切りをつけてその帳簿に 記載された感情科目を集計して生産表を 作ること。そして後財産目録に相当する ビランチをつまり状態表というその事業の 資産負債純資産の一覧表を作ることが書か れておりさらに収益と費用の項目を1つの
41:22 感情にまとめて一覧表にするというの時代 にはなかった決算報告の新たな形を示した のです。この時代には目に見える財産を 中心とした損益計算が用いられていました ので収益と費用の集計表は状態表で計算さ れた損益額を検証するという補足的な情報 に過ぎま過ぎませんでしたがこの17世紀 には現代の損益計算書の方が見られるの です。 続いて18世紀から19世紀に時代を進め ていきましょう。舞台はイギリスです。 この時代はイギリスにおいて第一次産業 革命が起こり、企業組織も企業活動の具体
42:10 的なあり方も大きく変化をし、さらにその 影響が社会全体へと波及した結果、社会の 構造そのものがそれまでとは異なるものに なったというまさに画期的な時代です 。16世紀、17世紀にかけて黄金時代を 王化したオランダは徐々にその勢いを 落としていきます。それに変わって勢いを 耐えさせることなく発展を続けたのが イギリスです。イギリスは元々は羊の国、 贈り者の国でしたが、ヨーロッパに キャラ子というインドさんの面折おり物が 入ってくると主力商品を脅やかすほどの 売れ行きとなりました。
42:57 イギリスは初めはインドから完成品を輸入 してヨーロッパで売りさきましたが、この インドさんキャラは株式市場にバブルを 作り上げるほどの熱狂ぶりを見せたため、 イギリス政府はインドからのキャラコ製品 の輸入を禁止しました。しかし需要はある わけですから、密友が行われたり、 オランダ経由でインドさんキャラを輸入し たりする事例が相ついたのです。度々政府 から禁止例が出されたため、面輸入禁止に 対する対抗措置として商人たちは当時植民 地であったアメリカ深の島々で プランテーションを作り、そこで面を育て て民子を元に確保してそれを国内で製品に
43:44 して国内外で売るというように方向転換を したのです。オ製造業が近代のものへと 展開されているさです。それまでは脳村の 余剰労働力を使って内工業として作られて いた折り物製造が需要に押されてその製造 を集中的に行う工業性内工業へと進化して いったわけですが、18世紀半ばには食器 や防石期の発明、ついで蒸気機関の発明に よって動力を得るという年型の向上性機械 工業へと発展していきました。 工場を作り、当時最新式の機会を入れる ためには当然お金がかかりますね。従って
44:32 そういう事業を行うための資金を集める ために株式会社が利用されたことは言う までもありません。もうすでに証券市場は 存在しており、利益を生み出す事業を探す 投資家たちもたくさんいるわけですから。 スライドに示したように資金が特定の事業 化の元に集まることは必然的な結果だった わけです 。投資資金をたくさん集める人たちのこと を資本化と言うとすれば、そういう資本化 は生産が利益及び利益が利益及びさらに それを蓄積するというサイクルを作り上げ ます。こうした資本化が単に折り物産業 のみならず事業を高く化したり資本化同士
45:17 が協力関係をつなげばもはや様々な市場で 独占状態を作ることができるほど巨大化し ていくわけです。こうした経済の活性化は イギリス国内のみならず対ヨーロッパや対 植民地に対しても波及しイギリスの証券は 広がっていきます 。そうした資本家たちが運営する事業で 行われていた会計は16世紀、17世紀に オランダを中心でオランダを中心に行われ ていた内容をさらに発展させるものでした 。その理由は会計を行う主体である 株式会社の制度が前の時代よりしっかりと 定着したからです。福式簿記とそれを行う 会計行為は株式会社それも巨大で複雑化し
46:07 たところで行われてこそその本来の機能を 発揮することができるのです 。ここで株式会社についてまとめておき たいと思います。というのも18世紀は 今日の企業につながる事業形態としての 株式会社が成立する時代だからです。 株式会社の特徴はその事業の活動を通じて 利益を生み出すことを期待した人たちが 資金を合わせて事業を 行うという組織であるという点です。古は 1600年に設立されたイギリスの東 インド会社やその2年後に設立された オランダの連合東インド会社です。これら の会社は設立当初は1公開ごとに決算をし
46:52 て会社の財産も利益も全て生産した後、 また次の公開のために資金を集めて事業を 行うという当座企業の性格を持っていまし た。ただオランダとイギリスの違いは前に も話をしましたが、オランダの連合東 インド会社が有限責任性や株式会社の譲渡 が可能であったりといった現代の株式会社 に近い特徴を持ち かつ会社の運営についても17人会や 取り締まり薬といった会社の期間を設け 組織的に運営ができる仕組みを持ってい ました 。さらにオランダは連合東インド会社が
47:39 設立される以前から多くの東インド貿易を 成功させていたのに対してイギリスの東 インド会社は設立事態はオランダのそれ より2年早かったとはいえ経営に参加した 商人たちは未だ東インド貿易に実績を持た ないものたち で資本規模も会社の組織もオランダに比べ て脆弱なものでした。 が2年早いためイギリスの東インド会社を 世界初の株式会社として取り上げる向きも あります 。確かに株式を発行して他人の資金の拠出 を受けるという点については現代の 株式会社に通じる初めてのケースと言える
48:25 でしょう。しかしその実態を見れば設立後 50年ほどは東インド貿易は常にオランダ に劣星を強いられる結果でした。1623 年に日本からイギリスが撤退した背景には このような両国の東インド会社の組織力の 違いが現れているのです。しかし、インド 経営に専念することにしたイギリスの東 インド会社は1657年に組織改革を行い 、それまで限定された承人だけが出資する という資金調達方法を改め、広く一般から 資金を募る方式に変えました。株主の数も 増え、株主総会を開催する必要が出てき
49:13 ます。またすでに実態としては継続的に 事業を行っているにも関わらず決算は当座 企業であるかのように1公ごとに出資額も 利益も全て生産するという配当方法を取っ ていたところを変更して事業の果実である 利益だけを株主に配当するようにし出資額 は会社に残して事業活動のための原子とし て維持する方式に変更しました。この段階 に至ってイギリスの東インド会社は 株式会社としての本来の形式を整えたの です 。この段階で株式会社の基本的な形が見え てきましたのでそもそも株式会社の組織と
50:00 会計報告との関係を説明しておきましょう 。株式会社は不特定多数の投資家から資金 を集める仕組みですから、その投資家の数 が多くなればなるほど実際に経営に携わる ものと資金だけを拠出するものとに役割が 分割していくことが予想される組織です。 現代の株式会社はまさにそういう状態で 経営の実務を担当する経営者はその会社に 資金を拠出している株主の集まりである 株主総会から経営を任されている代理人に 過ぎません 。代理人である経営者は株主総会によって 任命されるわけですからその進任を受け なければ事業を行うことができないのです
50:48 。そのためこれら両者の信頼関係を維持 するツールとして会計情報である財務所表 、つまり決算日現在その株式会社が保有し ている財産の一覧表である貸借対象表と その一定期間に企業が活動した事実を数値 に凝縮して示した損益計算書があるのです 。スライドにあるように財務諸表は企業 資本の運用を委託された経営者がその委託 をした株主に対して事故の経営責任の遂行 状況を説明するためにあるのです。こうし た遂行される経営者の責任のことを アカウンタビリティと言います
51:34 。今お話ししたことは現代の企業において 会計が行われる根拠を示す重要な考え方な ので図で説明しておきましょう 。企業は活動を行っていくためには資金が 必要です。そのため企業経営者は株主から 資金の委託を受けてつまり資金を受宅して その資金を使いながら事業を行っていき ます。 この両者の資金の住宅委託の関係は経営者 にとっては資金を受宅したものとしての 義務、そして株主は資金を委託したものと しての権利が生じることになります
52:24 。この資金の委託を受けた経営者は委託さ れた資金の管理、保全運用を行う責任を 負うことになります。この責任のことを 受宅責任と言います 。この経営者が追っている住宅責任はこれ を遂行したということを説明しなければ 解除されることはありません 。つまりその住宅責任を解除しようと思え ばちゃんと住宅責任を遂行したということ を説明する責任もまた生じるわけです。 この責任のことを会計責任と言います。 アカウンタビリティです
53:12 。この会計責任の遂行は現代の株式会社に あっては株主総会において会計の決算書を 開示し、そしてそれが総会において承認さ れることによって遂行されるのです 。さて、イギリスの東インド会社は 1750年代の組織改編を経て経営が安定 し、そして株式の価格も順調に推移してき ました 。そして18世紀に入る と順調なアジア貿易に対抗するかのように 今度は西インド諸島と南アメリカに対する 貿易熱が高まってきます。そこでアフリカ
54:00 から西インド諸島に奴隷を送り、面を作る ためにプランテーションを作れば、そこ から面をイギリスに輸送してイギリスで面 品を作れるという計画が持ち上がりました 。その計画を独占的に担う会社として設立 されたのが南海会社です。ところが、当時 南アメリカはフランスの強い支配にあり、 南海会社は大きな成果を作ることができ ませんでした。 ちょうどその時期スペインの多い継承を 巡ってフランスとイギリスは光戦状態に あり、その戦のためにイギリスは大変な 財政でした。そこでイギリス政府はその
54:45 財政を国際を発行することで乗り切ろうと 考え、その国際を引き受ける会社として 国策として設立しながら成果の上がらない 南海会社を利用しました。段階会社は政府 国際を引き受けるとともに政府国際を所有 する個人に対し て国際を買い取る代わりに南海会社が 支払った代金で南海会社の株式を買うよう に勧誘しました。そうすると証券市場に おいて南海会社の株式需要が高まって株価 が上がると考えたのです。株価が上がれば 次に南海会社が株式を発行する時にはそれ
55:30 まで以上に他額の資金が会社に入ってき ます 。思惑通り南海会社の株価は上がり本業の 貿易事業は思わしくないにも関わらず 南海会社が政府の後押しを得て南アメリカ のペルーキン山の開発を手掛けるのでは ないかなどという噂も立つようになるなど 人々の値上がりの期待値だけで株価が 上がっていくという状態つまり南回バブル と言われる状況が作り出されたのです。 この南海会社の株式 に国王大臣議員裕福な商人や主のみならず
56:17 一般の姿勢の人々や日々の生活に困るよう な人々でさえ借金をしてまで投資したと 言われています 。株式投資に強乱した人々は南海会社以外 の類事の会社に対しても同じような期待を 挑株式を買いました 。アフリカ貿易や南アメリカ貿易を加立て て新たに設立される会社やこうした市場の 同行を当て込むだけの怪しげな会社が次々 と設立されたことで投資行動がさらに加速 するという状況に陥りました 。しかしこのような人々の熱狂によって 作り出された急激な株価の後等は実態を
57:03 反映したものではないため急激に下落の道 をたどることになり証券市場は混乱に陥り ました 。イギリスではこの南海末事件を気に共同 出資による株式会社に相当の懸念を抱き、 これ以降法末法という法律を制定して共同 趣旨の株式会社の設立に慎重な姿勢を取り 100年余に及ぶ思考錯誤の結果1844 年に株会社登期法が制定されます。これが 現在のイギリスの会社法の前進です 。この会社法では株式会社の設立について
57:52 従来行われていた認可性の代わりに法の 規定に順ずることにより会社が設立できる 純則法が導入されましたが同時に会社の 財務内容を詳細に明らかにすることが求め られました。ここにおいて初めて退借対象 表が法律に基づく制度として規定されたの です。まさに近代会計制度の始まりと言え ます 。近代的な株式会社が設立されるように なり、第一次産業革命を経て向上請工業へ と産業は発展しましたが、それによって 会計行為はどのように変化していったの でしょうか?事業はすでに継続企業化して
58:39 おり、そこで行われる会計では機関損益 計算を定期的に行う時代に入っています 。先ほども述べたように所有と経営の分離 が進んでいっていますので前の時代より 会計報告の重要性は高まっています 。しかしそういう時代になっても会計報告 の基本的な形は前の時代から継承された もので機種と期末の資産負債純資産を残高 と呼ばれる貸借対象表にまとめて両者を 比較することで利益を計算する形式で ストック計算による損益計算が行われてい ました
59:24 。これに対して事業の活動状況を示す収益 と費用による損益計算は貸借対象表で計算 された利益額が数字的に正しいものかどう かを確かめるためのものでしかありません でした 。こうした従来型の会計報告に対して変化 をもたらしたのが実務からの要請です 。19世紀近くになるとイギリス企業は北 アメリカ大陸との事業が増えイギリスさん の製品を向こうで売りさくために代理店に 対して委託手数料などを処理する必要が出 てきました。また国内においても製造工場 のみならず鉄道建設や運河会社の
1:00:11 運営石炭採掘事業など何年にも渡り使い 続ける資産。これを固定資産と言いますが 、こうした資産の会計処理をどうするかに ついて従来の処理法の矛盾が指摘される ようになってきました。長く使う資産を 購入時に全て一括して費用として処理して いいのかどうかといった資産と費用を巡る 問題です 。事業が変化発展すれば現実の事業の活動 を数値で明らかにする会計もおずとその 変化発展に応じなければ最終的に投資家 など情報利用者の意思決定に役立つ情報を
1:00:57 提供することはできません 。イギリスにおいて監査は1862年に 貸借対象表の作成が義務づけられた時に 同時に導入されました。しかし実務では すでに監査需要はあり、株式会社制度は 1844年に成立した会社法で導入されて いますので、事業活動の結果である会計 報告に真実性を求める投資家たちの監査に 対する要請がありました。しかも先ほど 述べたように19世紀に入ると北アメリカ 大陸との取引も多く大掛かりになっていき ます。投資家たちにとってアメリカとの
1:01:43 事業はドル箱的な投資先です。その最る ものが北リカで展開されていた鉄道建設 事業です。投資家たちは会計の分かる専門 家を現地に派遣して北リカでの事業の実態 を知る必要があったのです。 こうした実務先行の需要によって1853 年エジン原にスコットランド直去会計士 協会 がその次の年にロンドンにイングランド ウェルズ直去会計士協会が設立され イギリスにおいて監査を法制度に導入する 下地が出来上がり1866年の改正会社法 において監査制度が導入されました。
1:02:32 さて、時代は20世紀に入ります。 いよいよ現在株式会社が行っている会計の 直接的な理論的な基礎が整備される時代と なります 。その先駆がけとなったのがスライドに ある同的貸借対象表評論という書物です。 ドイツの経営経済学者シュマーレンバッハ が記した書物 で1919年に出版されました。 この書物のタイトルの同的とはどのような 意味かを知ることがポイントです 。貸借対象表は古くはビランチオ財産目録 である時点の事業が保有する資産負債純 資産を示す財務表でおよそ中世イタリア
1:03:20 時代から何百年にもわたって主となる財務 表であり続けてきました。そして福式簿記 はこの貸借対象表に示される資産負債純 資産だけでなく企業の努力と成果を示す 費用や収益をも捉えてこれら5つの要素が お互いに関係を持ちながら増加減少する 取引を記録計算するシステムとして用い られてきました 。貸借対象表も損益計算書もその福式簿記 の帳簿に記された数値を集計した結果の はずです 。ところがシュマーバッファがこの書物を 記した当時貸借対象表は帳簿数値とは離れ
1:04:09 て作成されていました 。そこでシュマレバッファは貸借対象表を 構成する資産負債純資産と収益と費用との 関係を引いては貸借対象表と損益計算書と はどのように関係づけるべきなのかを考え ました 。彼はまず損益計算とは何かを考えます 。最も正確な損益計算をしようとすれば、 それは企業が設立されてから生産される までの間に稼いだ利益の額、つまり全体 利益であるはずです 。しかし現在の企業は継続的に事業を行う 組織体として存在している。だから人意的
1:04:58 に期間を区切って損益計算をせざるを終え ない。そうやって計算されるのが機関損益 計算です。 とはいえ期間を人意的に区切っているだけ だからその区切り目つまり決算の時にその 期と次の木の間に必ず会計算上のずれが 生じるはずだというわけです 。そのずれて残っている項目を示している のが貸借対象表だと彼は考えました 。資産は決算の時点ではまだ事業活動に 使っていないので残っている。負債はまだ 返済していないので残っている。期間を 区切った時に未解決の項目
1:05:44 を示しているのだと 。シュマレンバッ波の考え方の基礎には 事業活動はずっと行われ続けているものと いう認識があります。つまり同的という 意味です。そして会計はその 継続される活動を数字によって描写する 行為なのだから動いている。つまり企業が 利益を求めて努力をし成果を上げるという 企業の本来の目的に照らすならばその活動 を示している収益と費用こそが主であり それを示すのが会計報告の本来の役割では ないかと考えました。活動は動いている。
1:06:30 その中で貸借対象表はその活動に無関係な まだ使われていない項目を表示して一定の 役割を果たしていると考えたという意味で 彼の論接は同的貸借対象表評論あるいは 同体論と呼ばれているわけです 。現代の企業会計はこうした考え方に 基づいて構築されています。そこで シュマー連バッハ派の同体論のポイントを 整理しておきましょう。まずそれまで財産 の一覧表として作成されていた貸借対象表 を企業そのものを示す収益と費用の観点 から再定義をしたという点です。資産も
1:07:16 負債も収益費用になる前の姿である とこうした収益費用を中心とした資産負債 の最定義によって明らかにされた貸借対象 表の性格はその期間の損益計算において未 解決の項目を収納する表であるということ でそこで表示される資産負債順資産は今 これらを生産したらいくらになるかという 債務返済能力ではなく、時期以降に起用 活動に使い収益を生み出す元を示している とする考え方へと変わっていったのです。 その上で貸借対象表は連続する当期の機関
1:08:03 損益計算と以降の損益計算等をつなぐ役割 を果たしていると考えました。それは本来 企業活動は日々動いているものであり、 それを利益を計算するために人意的に 区切ってしまうので、そのつぐ役割、 つまり連結間の役割を損益貸借対象表が 果たしているとする貸借対象表の機能に ついて新たな見解を示したわけです 。これによって収益と費用に基づく損益 計算を中心に据え長らく財産の一覧表で しかなかった貸借対象表の意義が転換さ
1:08:49 れることとなりました。従来の貸借対象表 は財産計算も損益計算も行う財務表と考え られてきましたが、この同体論によって 損益計算は損益計算書で財産計算は貸借 対象表で行うという役割分担と両者の明確 な関係が示されたのです。この考え方は 現代の企業会計の理論的基礎となってい ます 。さて、時代は20世紀に入りました。次 の舞台はアメリカです。20世紀諸島は ヨーロッパは受難の時期で、第1次世界 大戦によって経済は壊滅的な打撃を受け ました。それに対してこの対戦化の
1:09:37 ヨーロッパにおける様々な需要を満たした のがアメリカです。アメリカ経済は戦争景 によって未の後景器をしていました。その 内容はスライドにも示した通りです。後景 器は活発な企業活動と消費それを可能に するための資金を満たす投資家たちの投資 行動によって作られていきますが、この バランスが崩れると経済は良くない方向に 向かっていってしまいます 。アメリカのニューヨーク証券取引所に おいて、1929年に株価が大暴落し、 その後アメリカ経済が大教皇に陥り、その 余波が世界を駆け巡ったことは皆さんもご
1:10:24 存知だと思います 。この大教皇の原因は様々な要因が絡んで いますが、少なくともその原因の一端には 投資行動の加熱が上げられるでしょう 。ここでは企業会計に関係する点に限定 すると、当時アメリカでは企業が公表する 会計情報の作成と開示に関する厳格な基準 や法整備が十分ではありませんでしたが、 投資家はそういう会計情報を頼りに投資 活動を行っていました。そうすると南海 放末事件と累事する状況が生じるわけです 。イギリスで200年前に起きたことが 今度はアメリカで再び起きたということ
1:11:12 です 。同じようなことは繰り返され、日本に おけるバブル経済も時代や経済環境は 異なっていても同じような状況だったと 言えるでしょう 。こうした大皇の経済の混乱を収束させる ためにアメリカではニューディール政策が いち早く打ち出されたことは皆さんもご 存知かと思います。その一環として先ほど 述べた証券市場における会計情報開示を 規制する厳格な仕組みが整えられました。 1933年に証券取引委員会SECが設置 され、証券取引の安定と円滑を図る役割を 果たすこととなり、翌年の1934年には
1:12:01 現在の証券取引法と証券取引法証券2法と 呼ばれていますが、これらの法律が定め られました。このアメリカ証券取引法は第 2次世界大戦後日本に制定された現在の 金融商品取引法の全進である証券取引法の MODとなった法律です 。こうした大皇の経済の混乱を収束させる ためにアメリカではニューディール政策が いち早く打ち出されたことは皆さんもご 存知かと思います。その一環として先ほど 述べた証券市場における会計情報開示を 規制する厳格な仕組みが整えられました。
1:12:47 1933年に証券取引委員会SECが設置 され、証券取引の安定と円滑を図る役割を 果たすこととなり、翌年の1934年には 現在の証券取引法と証券取引法、証券2法 と呼ばれていますが、これらの法律が定め られました。このアメリカ証券取引法は第 2次世界大戦後日本に制定された現在の 金融商品取引法の全進である証券取引法の MODとなった法律です 。そしてそれまでの会計情報の開示法が 貸借対象表に記載する資産負債を時価で
1:13:35 記載し、不確実な未だ実現していない利益 をも含めて損益計算を行っていたという 方式を改め取得減価によって記載するよう にし、先ほどお話ししたシマーレンバッ破 の同体論の考え方に基づいて会計制度を 整備する方向に家事が切られたのです。 アメリカにおいては1930年代以降は アメリカ会計学会を中心として企業が遵守 すべき会計原則の作成と改定がなされ、 1950年代以降はアメリカ公認会警が その後を次、 1972年に現在の基準会計基準設定で
1:14:21 あるFASB財務会計基準審議会へと 受け継がれていきます。 現在アメリカは詳細かつ膨大な会計基準を 持つ会計大国です。しかしEUが国際財務 報告基準イファースを採用したことで本来 過酷ごとに異なるはずの会計基準を イファースに合わせようとする超和の動き があります 。アメリカは会計大国であることがこの 超和プロセスを進める障害となっており、 現在アメリカも日本も手詰まりの状況で あるということは先週内藤先生がこの講義 でお話しされた通りです
1:15:09 。今回は皆さんと約700年もの会計の 歴史を辿どってきました。福式簿記は承人 の英の決晶として成立し、経済活動のある ところ会計は実践されています。今の企業 会計が成り立っているのも福式簿記があっ てこそです。そして会計の歴史はその福式 簿記から作られる会計報告の役割の変化の 歴史でもあります 。そろそろ日本の大手企業は揃って株主 総会を開く時期になっています。 3月決算の会社の多くは6月末日近く資近 に一斉に株主総会を開きます。そこでは
1:15:56 必ず決算日現在の貸借対象表と前年度1 年間の損益計算書が開示されます 。これらの会計報告書は福式簿記により 日々の活動を記録した会計帳簿から数値を 誘導して作られています 。従ってこの基本財務所表と呼ばれる貸借 対象表と損益計算書は統計表でもなければ 一覧表でもなく下幣数値によって表現され た利益を追い求める企業の姿そのもので あると言えるでしょう 。それでは今週の課題です。え、これまで の授業を聞いて、次の問1から問3までの
1:16:41 それぞれに200時程度で答えてレポート にまとめてください。レポートの提出先は UNニIPAのレポートボックスです。 え、1つ目は福式簿記が14世紀から15 世紀においてイタリアで、え、成立したと いう風にお話をしましたけれども、当時の イタリア商人はなぜ正確な会計の記録が 必要であったでしょうか?そして2つ目 です。2つ目は、え、17世紀に、え、 ヨーロッパにおいて東インド会社が イギリス、オランダ、フランスなどで、え 、設立されましたけれども、え、その事業 組織はイタリア人のそれとはどのように
1:17:27 異なっていたかをまとめてください。 そして問さです。問さんは18世紀の イギリスにおいて生じた産業革命が、え、 事業の組織とそしてそこで行われる会計に どのような変化をもたらしたかをまとめて ください 。以上を持って社会と大学1第10回の 講義映像を終わります。皆さんさよなら。