77年前の戦争 両足を失った96歳の男性が語る モンゴル抑留の真実 バヤルタイ #中京テレビドキュメント

簡単なまとめ

このビデオは、第二次世界大戦後のモンゴル抑留という、あまり知られていない歴史に光を当てています。元抑留者の友弘正雄さんの最後の慰霊の旅に同行し、抑留の実態、モンゴル人の証言、そして現代の日蒙関係について探求します。

  • 抑留者による首都ウランバートルの建設
  • 抑留生活の過酷さと高い死亡率
  • 現代の日蒙友好関係と歴史の記憶

イントロ

毎朝の愛犬との散歩を欠かさない友弘正雄さんの日常が紹介されます。彼は神戸市須磨区で生まれ育ち、4つの時代を生きてきました。海外旅行が好きですが、近年は体調を考慮して控えています。

友弘正雄さんの紹介

友弘さんは、命と引き換えに両足を失いました。その場所は、日本から遠く離れたモンゴルでした。彼は軍人として終戦を迎え、強制的にモンゴルに抑留されました。

義足を外す友弘さん

友弘さんは義足を外すと、膝の擦れ跡を見せます。これは、抑留生活の過酷さを物語るものです。

モンゴル抑留について

友弘さんが抑留されたモンゴルについて、中京テレビのモンゴル人記者、モンゴルジュールさんが紹介します。彼女は、日本人が母国に抑留されていたことを数年前までほとんど知りませんでした。

取材するモンゴル人記者

モンゴル抑留について取材するモンゴル人記者、モンゴルジュールさんが、友弘さんの最後の旅に同行し、壮絶な記憶を辿ります。貴重な資料と当事者の証言を通じて、歴史の真実を明らかにしようとします。

靖国神社を訪れたモンゴル会

東京の靖国神社で毎年開かれるモンゴル会という集まりが紹介されます。これは、終戦直後にモンゴルに抑留されていた人たちが作った会です。

モンゴル抑留経験者の話

モンゴル抑留経験者が、帰国を待ち望んでいたにもかかわらず、捕まってシベリアに連れて行かれた体験を語ります。スターリンの命令により、日本兵はソ連に移送され、強制労働をさせられました。

シベリア抑留とモンゴル抑留

満州やカラフトなどにいた約60万人の日本兵や民間人がシベリアなどに抑留され、6万人が死亡したシベリア抑留が知られています。一方、ほとんど知られていないのがモンゴル抑留で、約1万2000人が2年にわたって抑留され、約1600人が犠牲になりました。

モンゴル抑留について取材する記者

モンゴル抑留とは何か、なぜ行われたのかを取材するため、モンゴル会で友弘正雄さんと出会います。彼は戦友たちの慰霊のため、40回以上モンゴルを訪れています。

モンゴルへの慰霊の旅

モンゴル会は2017年に解散しましたが、2019年6月、友弘さんが最後の慰霊の旅に出るという連絡が入りました。モンゴルジュールさんも同行し、当時のことをもっと深く知りたいと考えました。

最後の慰霊の旅

日本から約3000キロ離れたモンゴルの首都ウランバートルに到着した友弘さん。94歳で臨んだ最後の慰霊の旅が始まります。

スフバートル広場

ウランバートルの中心部にある広場には、抑留者の刻んだ即席が残っています。図書館や市役所など、多くの建物が日本人抑留者によって建てられました。

なぜ抑留者が建設に関わったのか

抑留者が町の建設に関わることになった背景を探るため、モンゴルの歴史に関する資料が保管されている公文書管理庁を訪れます。

公文書管理庁

公文書管理庁には、抑留者の名簿などの資料が保管されています。資料によると、モンゴルが受け入れた日本人は1万2318人で、ウランバートルを中心に約50カ所の収容所に分けられ、強制労働をさせられていました。

抑留の様子を記録した映像

公文書管理庁に残された記録映像のフィルムには、ウランバートル市内の建設現場で強制労働させられる日本人の姿が映っていました。この映像は、1946年から47年にモンゴル政府が記録用に撮影したものです。

抑留の背景についてモンゴルの歴史学者

当時のモンゴルは、ソ連の指導のもと、社会主義国として近代国家づくりを急いでいました。労働力不足を抑留者で補い、首都の整備を進めたのだと言います。

モンゴルの新聞記事

モンゴル抑留について知ったのは、約10年前、大学を建てたという抑留経験者の記事をモンゴルの新聞で偶然見つけたのがきっかけでした。

国立オペラ・バレエ劇場

抑留者が血と涙と焦りの結晶で作った建物が紹介されます。

労働の様子の絵

当時の過酷な労働の様子を、抑留経験者が絵に残しています。凍てつく寒さの中、地の伐採をする人たち、不安定な足場で重たいレンガを運ぶ人々の姿が描かれています。

抑留経験者の話

他の抑留経験者からも話を聞くことができました。田辺俊二さんは、私の出身大学を立てた人です。松永篤史さんは、生前「最悪だった」と証言してくれました。

慰霊の旅

戦友の慰霊の旅を続ける友弘さんは、抑留の大半を過ごした場所を訪れました。

友弘さんの足跡

軍人だった友弘さんは、終戦を満州で迎え、ソ連軍に連行され、シベリア鉄道や徒歩でモンゴルへ。道中、足が凍傷になり、病院に着いた時には切断するしかない状態でした。

病院を訪れる友弘さん

かつての病院は、現在修復され、近くのお寺の施設として使われています。友弘さんが中へ入るのは、抑留以来初めてです。

手術室に入る友弘さん

友弘さんは手術室に入り、当時の記憶を辿ります。麻酔も十分でない状況で、日本人医師によって両足を切断されました。

友弘さんの手術について

手術に立ち会った作家の胡桃沢耕史さんが、実体験に基づいて書いた作品「黒パン俘虜記」が紹介されます。

モンゴルのテレビ局

当時のことを知る人に話を聞くため、首都ウランバートルのテレビ局に協力を求めます。情報提供を呼びかけるためにテレビに出演し、モンゴル抑留について伝えました。

当時を知る男性との出会い

放送を見た人たちから多くの情報が寄せられ、96歳のドラムスレンさんと出会うことができました。彼は、20代の時にウランバートル市内にあった収容所でおよそ1年半、抑留者の幹部を務めていたと言います。

シレンデブ氏の証言

当時、チョイバルサン首相の側近を務めていたシレンデブ氏は、過去に「中国を軍国主義日本から解放する必要があると考えたからだ」と証言しています。

国鉄に復帰した友弘さん

22歳で両親と再会を果たした友弘さんは、義足を作り、歩行訓練を始めました。そして、終戦前から勤めていた国鉄に復職し、3人の子宝にも恵まれました。

最後の慰霊の旅

94歳を迎えた今回、最後と決めた慰霊の旅で、友弘さんはどうしても尋ねておきたい場所がありました。それは、モンゴルとの関わり方が大きく変わるきっかけとなった場所だと言います。

孤児院の卒業生と再会

友弘さんがモンゴルに来ていると知って、孤児院の卒業生であるハグバスレンさんが訪ねてきました。彼女は、4歳年下の弟と一緒に路上生活をしていましたが、大人になるまでの5年間を施設で過ごしました。

現在の日本とモンゴル

70年以上前に多くの日本人が抑留されたモンゴルは、民主化後日本と友好関係を築きました。日本では毎年春にモンゴル祭りが行われています。

慰霊の旅

友弘さんは、最後の慰霊の旅で、ウランバートル郊外にある日本人抑留者の慰霊碑を訪れました。戦友たちの魂へ、72年の時を越えて最後の言葉をかけました。

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文字起こし

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0:11 おはよう ございます 毎朝 愛犬との散歩を欠かさないともひろを まさおさん [拍手] [音楽] 久しぶりだね [拍手] [笑い] [音楽] 生まれ育ったのは 神戸市須磨区大正 [音楽] 昭和 平成 令和と4つの時代を生きてきました

0:59 [音楽] 名前は何て言うんですか [音楽] ともくんとの散歩は 毎日およそ1時間 出かけるのは1日のうち ほぼこの時間だけです [音楽]

1:50 海外旅行が好きな智弘さん しかしここ数年は 体調のことを考えて 旅には出ていませんこれ こここういう風な 膝でねこうしてなんかここは 擦れて こういう色になって

2:39 命と引き換えに 両足を失いました そしてここで もうちょっと片付けて ご飯ですよ今で寝てんの 血を失ったのは日本から 遠く離れたモンゴル トモヒロさんは軍人でした 終戦を 強制的に連行され モンゴルに 抑留されたのです

3:27 私はそのモンゴルから19年前に留学生と して来日しました 名前はモンゴルジュール 今は中京テレビで 報道記者をしています しかし日本人が私の母国に 抑留されていたことは 数年前まで ほとんど知りませんでした あの時は生きるの精一杯でね明日は蝉かも わからん今度 今度は俺の晩かなぁなんて思いながら

4:12 なんとか生きて帰りたいな 生きてお母ちゃんに会いたいな [音楽] 最後の旅として訪れたモンゴルで 語ってくれた 壮絶な記憶 それを裏付ける 貴重な資料と 当事者の 証言 [音楽] 対戦別に 役員募集中に そして時代や場所を越えた

4:59 強いつながり たい さようならそして 幸せとともにまたあなたと 会いたいそんな意味もある 言葉です [音楽] 東京の 靖国神社

5:45 毎年11月23日ここである集まりが開か れていました [笑い] 久しぶりに 皆さんだってください モンゴル界と呼ばれるこの会 作ったのは 終戦直後に モンゴルに抑留されていた人たちです 1945年 8月8日 第二次世界大戦が終わる直前それが日本に 戦線を布告

6:31 日本が 事実上の植民地としていた満州を進めまし た [音楽] さらに 8月10日 モンゴルも参戦 [音楽] 隣接するソ連との間で 相互援助条約を結んでいたのです [音楽] そして 忍び 日本は 戦争に負けました すると大陸で終戦を迎えた日本人を待って

7:16 いたのは思いもかけないことでした 自分の国が帰れると 捕まってね シベリア 鉄道で連れてこられたいはい 寂しい話 それの指導者スター 日本兵をソ連に移し 強制労働をさせる命令を下したのです [音楽] これにより 満州やカラフトなどにいたおよそ60万人 の日本兵や一部の民間人が シベリアなどに抑留され

8:03 6万人が死亡 シベリア抑留として知られています 一方 ほとんど知られていないのが モンゴル翼竜 およそ1万2000人が2年にわたって 抑留されました 皆様に感謝という言葉と同時にいろんな 貴重な 預言者の方の 言葉また モンゴル抑留はおよそ1600人の犠牲者 を出しました そして慰霊のために 元抑留者や遺族が年に一度集まるように なったのが モンゴル界です 中田さんがおっしゃるように一人一人 それぞれ モンゴル翼竜とは何かなぜ行われたのか

8:53 取材のために尋ねたモンゴル界で私が 出会ったのが 翼竜経験者の 友博 正雄さんでした 戦友たちの入江のためもう40回以上 モンゴルに行ったと言います 生き残ってきたしかも恥ずかしく今まで 生きてるっていうのはねそういうね 負い目が多いめっていうか 申し訳ないなぁちょっとかろう 僕はねありがとう ございました

9:39 ぜひ行かれるときに私も一緒に行きたいん です 智弘さんと一緒に行けば 当時のことがもっとわかるかもしれない私 も同行したいと思いました 今日も くれた か あかね見える [音楽] 街の日に 影響の 涙

10:25 誘わ れて いる ハートの [音楽] 家 モンゴル界は 2017年に開催しました 高齢化が 理由でした 2019年 6月 ともひろさんが モンゴルへ最後の慰霊のたびに出るという 連絡が入りました 気持ちのふっきり

11:12 地図最後のやる 就活として きちっとしてきたかったんね 動けるとだけはいきます」って基地買って た お墓で だからこれも最後動けるから行くって一人 で行くつもりやったの 行きましょうって最後になったらほんとね 向こうで死んでもいいから モンゴルについた 友宏さん 94歳で臨んだ最後の

11:59 慰霊の旅が始まります [音楽] 日本からおよそ3000キロ離れた モンゴル 中国とロシアに挟まれた人口およそ 300万人の国です 首都ウランバートルはおよそ145万人が 住む大都市 [音楽] 智弘さんはここに 終戦後2年間 抑留されていました 今回の旅は8年ぶり 遺族4人と一緒にやってきました

12:46 [音楽] ウランバートルって結構変わりました当時 から考えた 全くわからない 当時 モンゴルに抑留された日本人の大半がいた のは ウランバートル 中心部にある広場には 抑留者の刻んだ即席が 残っていました こんな広かったかななんか 広いのも これずっとね こんだけ種類もよくできたな

13:34 これがあの オペラ劇場ゆっくり下が作った ここたぶん 映画館でなんとかなんとかちゃんとそれも 立てたあそうなんですね 街の顔である 図書館や市役所などの 多くの建物が日本人抑留者によって 建てられたと言います どうして抑留者が町の建設に 関わることになったのか その背景に何があったのか モンゴルの歴史に関する資料が保管されて いる 公文書管理長を訪ねました

14:23 この保管庫の中に日本のテレビ局のカメラ が入るのは 初めてだと言います 抑留者の 名簿などの資料を見せてくれました [音楽] 資料によるとそれがわから モンゴルが受け入れた日本人は 1万2318人 ウランバートルを中心に 多いときでおよそ50カ所の収容所に分け

15:10 られ 川や 木材を加工する工場などで 強制労働をさせられていたことがわかり ましたさらに 当時の写真も残っていました [音楽] しかし写真は日本映画武装解除された時 モンゴルへ向かう要素を映したものばかり 抑留中の要素がわかるものはありません でした [音楽] 調べを勧めると

15:55 公文書管理帳に残されたある 記録映像のフィルムにたどり着きました 私たちが日本のテレビ局として 初めてその存在を確認したものです 長さおよそ16分 音声が入っていない モノクロフィルムに移っていたのは ウランバートル市内の建設現場で

16:42 強制労働させられる日本人をクリアー この映像は 1946年から47年に モンゴル政府の 記録用に撮影されたものだと言います 映像の中には 建設現場の視察に訪れる 当時の首相など 政府関係者の姿も映されていました 翼竜の背景について モンゴルの歴史学者は [音楽]

17:45 当時は ソ連の指導のもと 社会主義国として 近代国家づくりを急いでいたモンゴル しかし 1940年代の人口はおよそ75万人 そこで 労働力不足を抑留者で補い 首都の整備を進めたのだと言います [音楽] 当時作られた建物と 現在の様子を比べてみると こちらは 外務省の庁舎 70年以上経った今でも 当時のままです 抑留された日本人は

18:30 政府庁舎をはじめ30 以上の建物の建設に 関わったとされています 私が学んだ モンゴル国立大学もその一つでした [音楽] だいぶ 手でしたはずね 綺麗にね それで何で私のデータ大学を日本人が作っ たんだろうと思ってそれまで知らなかった 連絡してこのようになった

19:17 私がモンゴルゆくりについて知ったのは まさか10年前 [拍手] 大学を立てたという 抑留経験者の記事を モンゴルの新聞で 偶然見つけたのです でも知らなかったのは私だけではありませ ん [音楽] 日本人の抑留について ほとんど知られていません

20:04 一体なぜなんでしょうか 1940年代当時 モンゴルの最高権力者だった ちょいバルサン首相 側近の試練で節は 1995年に 新聞社のインタビューでこのように証言し ています 社会主義時代は 捕虜抑留に触れることができなかった 首都を 敵が建てたということを 認めたがらない そのような体制だったと言います 社会主義下にあったモンゴルでは 首都の主要部分を日本人の抑留者が建設し

20:51 たことは タブーとなっていたのです そして時代と共に 歴史は風化 社会主義が崩壊した今でも 学校などで教えられることは ほとんどありません 私が知らなかった事実は 他にもありました 自分が 作った一生懸命働いてやったところが どんなものになってるか見にいなくなった 人 多いんですよね 血と涙と 焦るの結晶で私たちの気持ちは 他の建物でも

21:40 階段を 踏み外して ですね 私が毎日 目にしていた場所で大勢の日本人が 犠牲になっていたなんて思ってもみません でした 当時の過酷な労働の様子を 抑留経験者が 絵に残しています [音楽] いてつく寒さの中 地の伐採をする人たち 不安定層が足場を進みながら 重たいレンガを運ぶ人

22:26 [音楽] 他の抑留経験者にも 話を聞くことができました 田辺俊二さん 私の出身大学を 立てた人です [音楽] 毎日死んでんな 食い物はなかったの しょうがないからその童貞ちゃ葉っぱ ぼっちて 食ったらさ

23:11 3年前 98歳で亡くなった 松永篤史さん 生前こう証言してくれました 最悪だったね シラムが湧いちゃってね ちなみにみんな 自分を殺された人多いわ セキュリティとかそんな ジュースなんかの 電車に乗ったら出てくるんだよね それであの 病気になる人が多かったですよね 入りたい帰りたい言いながら死んでいった 人も多いわね モンゴルに残された資料によると2年間で

23:58 亡くなった人は 全体の13%にあたる 1615人 シベリア抑留の10%より高い 死亡率です [音楽] 羽毛で ちゃんと コロンベールと酸化投資これでちょっと 思いますそして 1万人を超える規模の抑留者 当時のモンゴルは 受け入れの体制が整っておらず 死亡率の高さにつながったのだと言います [音楽]

24:50 戦友の慰霊の旅を続ける 智弘さん 抑留の大半を過ごした場所を訪れました 建物の 佇まいは昔の昔の ただあの 修復してきれいにしてああいう模様は なかったような気がします かつての捕虜収容病院アムラルト 病院 ここで 智弘さんは 両足を切断しました [音楽]

25:36 軍人だった友宏政男さんは 終戦を満州で迎えました ソ連軍に連行され シベリア鉄道や徒歩でモンゴルへ 11月下旬 国境の町から 首都ウランバートルへは トラックの荷台に乗せられていそう 氷点下30度を下回る大陸の寒い冬が すでに始まっていました [音楽] 智浩さんは道中 足が東証になり [音楽] 病院に着いた時には 切断するしかない状態でした さんは病院に連れて

26:21 来られた日の 覚えているんですが ほとんど はっきりした日何月何日も覚えてない 全く [音楽] 貸し状態で 足切られる時に 痛いので 生きてるなと思ったんだけどそれまでは もう生きてるのか死んでるのかどうか 自分でもなんか 座ってきたんだよ手当が遅れた かつての病院は 現在 修復され 近くのお寺の施設として使われていました

27:08 智弘さんが中へ入るのは 翼竜以来 初めてです 失礼しますいや綺麗にしてやる これはこれずっと外科病とこれ上も下も 当時 作業中の怪我や東証のほかに 結核などの病気で入院する人が多かった 捕虜収容病院 250のベッド数の数倍にあたる入院患者 は 老化にまで 溢れかえっていたと言います [音楽]

28:01 自立室ここへね え 手術室これでなんか 消毒用の 洗浄するのに 多分ここだと思います 天井向いてね 押し付ける くぐりつけられて ロシアの委員長に麻酔弱手術を大出血する から 松井薬を手配してくれつってじゃあ委員長 がこれを司令部で電話したらしいねそんな んに 使うようなマスクにない 非常にねもう

28:46 政府そのものも 医薬品中のかそれからの EUの近い 近代的なものは本当に少なかったのね 切断手術をしたのは 同じく抑留されていた日本人の ウィンたち 持ち合わせていた 僅かな麻酔役では 切断が書の 極小麻酔しかできませんでした 手術に 立ち会った人がいます [音楽] 直木賞受賞作 黒パン不良機 自身もモンゴルに抑留されていた [音楽] 作家のくるみさんは講師さんが

29:31 実体験に基づいて 書き下ろした作品です くるみざわさんはともひろさんの手術に 居合わせたのです 日本とも 足の底は崩れ 指かと くるぶしぐらいまで赤黒く腫れて 煮過ぎたおでんのように 溶けて変形していた 放っておくと 上の健康な部分の肉を食って 腐らせていくともひろはまだ若い 死にたくはなかろう はい 死にたくなくあります日本へ帰って 父や母に一目会ってからでなくては

30:20 死んでも 死にきれんであります では 手術に耐えてくれ はい ステンレス製のよく光るノコギリの葉が 肉質を分けて 直接 骨に当てられた すっかり露出している骨の上で のこぎりが動き出した 骨が 引かれる音がする [音楽] 両足を失った時

31:06 二十歳だった 智浩さん 2年間の抑留生活の大半はこの病院で 過ごしました 杖や義足はなく 床を這いずりながらの 入院生活でした [音楽] ただね僕は今まで悔しかったのは 皆さんの世話にならんことには生きていけ ない まず食事もそれ持ってきてもらわないと 大切 物これまで 占有に

31:54 便所まで持って行って捨ててくれて ちゃんと洗ってくれていないよね とか言って 親友はやってくれるんやけどその戦友って あるいは病気でこっちが入ってる戦友 病気なんのいつ死ぬかわからんのがそれが 死んでいったの2人私より先に 結核やったから 一生懸命しに行きましょうだから抜け出し て手足に来てくれるの ねそんな時代だから まあ今更ね 愚痴だんだん愚痴っぽくなってきたから もうやめよう それに 情けなかったよ

32:39 それやったー [拍手] 70年以上前にあった日本人の抑留 この悲劇は 当時どうして許されてしまったのか モンゴルの人々は日本人をどう見ていたの でしょうか 当時のことを知る人に 話が聞きたい

33:26 協力を求めたのは 首都ウランバートルの テレビ局ですね 私は 情報提供を呼びかけるために テレビに出演し モンゴル翼竜について 伝えました 本当に必要性として 胃にギャードと本日を見る意見を言うと ある点灯しなさい

34:16 すると 放送を見た人たちから テレビ局に 多くの情報が寄せられました その内容は ローマの 夢を覚える の歌 ピッチベーゼ 集まった情報をもとに 早速取材を始めました

35:07 [音楽] 平均寿命が 70歳と 比較的短いモンゴル 当事者の子供や 親族に会うことができても 70年以上前の出来事 直接知る人を見つけることは 困難でした [拍手] [音楽]

35:54 寄せられた情報をたどり 唯一会うことのできた当事者が 96歳の ドラムス連鎖 高齢のため 耳が遠くなったという ドラムスレンさんとの会話は 紙に質問を書きながら行いました 1945年8月 ソ連とモンゴルが 満州に侵攻した際 歩兵として参加日本軍と 戦ったと言います [音楽]

37:07 見せてくれたのは 軍人だった時や 戦後 仕事で表彰され 与えられた 勲章の家族 中でも大切にしているのは お 薬になったり 1945年 我々は 勝利したと 刻まれた勲章 さらに 話を進めると思いもかけない事実が ね

37:54 あれは勢力 そうは何が ファン正直 20代の時に ウランバートル市内にあった収容所で およそ1年半 翼竜社の 干渉を務めていたと言います [音楽] モンゴル側は日本軍の 階級制度をそのまま温存それによって 上巻の命令が

38:39 絶対だった日本兵は 管理しやすかったと言います では当時 トランプセレンさんは日本人の抑留につい てどう思っていたのでしょうか [音楽] 日本人の抑留 京セラードの正当性は

39:25 疑わなかったと言います このような認識の背景に何があったのか 当時 ちょいバルサン首相の側近を務めていた 試練で節は 過去にこのように証言しています 1945年8月なぜモンゴルは日本に宣戦 布告をしたんですか まず中国を軍国主義日本から 解放する必要があると考えたからだ 39年の 春波川戦争があり 他にも我々は日本から戦争の脅威を受けて

40:13 いた モンゴル政府は 捕虜の労働利用を 賠償の一つと考えていたんですか 事実として 総理化してもらっていい ただし 公式にはそのような言い方はしていないし そうを規定していたわけでもない [音楽] 明治以降の近代化の中で 海外に 多くの領土や支配値を抱え 勢力拡大を続けていた日本 1932年に中国東北部に満州国を作って からは モンゴルとの間で

40:59 国境紛争が頻発していました 1939年に一連の国境紛争の中で最大 規模の軍事賞とつ ノモンハン事件 モンゴル川の呼び方で 春羽川戦争が発生 日本が モンゴルとその同盟国ソ連に敗北し 双方におよそ1万人の戦死者が出ました [音楽] 試練で武士によると ソ連から受け入れた日本人の抑留と強制 労働は日本が起こした戦争の責任だと モンゴル政府は認識していたのです

41:47 モンゴルゆかりよ 責任は 誰にあるのか [音楽] その答えは 国や 立場によって 違っていたのです そして 70年以上経った今 ドラムス連さんが思うことは んでいるから 全く分かったときは

42:49 [音楽] 国家によって 個人の人生が狂わされる戦争 二度と起きないように そう願っていました [音楽] 1941年11月 日本人のモンゴル抑留が始まってから2年 後 過酷な環境の中で生き残ったおよそ1万人 が日本に帰還しました [音楽] 22歳で 両親と念願の再会を果たした智弘さん 利息をつくり

43:35 歩行訓練を始めました そして 消臭前から勤めていた国鉄に復職 懇親3人の子宝にも恵まれました しかし 平和な毎日を過ごすうち 東に強くなるある思いが日本 帰ってきたでしょ こんにちまで生きてんの 誰かが犠牲になってくるんじゃないかなっ て 気持ちがあって 誰かわからんけどありがとうございました つっておりまいりしなきゃいかんっていう のをずっと思ってて ほらずーっと思ってたの

44:29 モンゴルに取り残された 戦友達の弔いはできないものか しかし当時 モンゴルとは国交がなく 入国は 絶望的でした 外交関係が樹立したのは 1972年 3年後ようやく許可がおり 智博さんはモンゴルへ 初めて 戦友達の墓の前に立ちました [音楽] 28年ぶりの再開 その場で 泣き崩れました [音楽] 以来

45:14 毎年のように墓参りを続けその回数は40 回を超えました [音楽] そして 94歳を迎えた今回 最後と決めた異例の旅で 智浩さんにはどうしても尋ねておきたい 場所がありました モンゴルとの関わり方が大きく変わる きっかけとなった場所だと言います [音楽] ここは

45:59 子供たちの勉強室です 大きな [音楽] 本棚が置かれた部屋 [音楽] 日本語の語順を表に 日本製のノート [音楽] ここは数年前まで 智弘さんたち日本人が運営してた 孤児院だったのです どうしてもとよく勇者が モンゴルで 孤児院を作ることになったのか 社会主義が崩壊して 貧しくて貧しくて ストレート地図でマンホールの子供たちに

46:45 合わせてたんですね 周回やでも私が子供だった 90年代初め モンゴルは社会主義が崩壊し 民主化が進む一方で インフレや 物不足が深刻でした 貧困などから ゴミを拾って生活するいわゆるマンホール チルドリンが 社会問題になっていました 子どもたちは 寒さをしのぐために 暖房用の温水パイプが通るマンホールの中 で 暮らしていました [拍手]

47:32 心を痛めた友宏さんたちは 少しでも力になりたいと 考えたと言います 子供20年そのもう外に出ちゃった ストリートチームって感じだったんですね いい 食10を やってあとは 数学まず勉強させなきゃいかんから 施設が作られたのは 1997年 [音楽] [拍手]

48:17 さんが入院していた 捕虜収容病院にもいた 元軍医の 春日幸男さん 智弘さんは日本とモンゴルを行き来し ながら 春日さんと一緒に 施設運営に当たっていました [音楽] 一生懸命勉強したもうねお医者さんになっ てるね だから人間って 本当に感じるものがあったらみんな再生 できるのねなんぼ悪い子でも 普通に考えると モンゴルで 例えば智弘さんだと思う足をなくしてそれ

49:05 でまた戻ってください [音楽] 活動は日本人支援者たちが高齢になった ため2010年に終了 13年間で 85人が卒業しました

50:00 この日 智弘さんが モンゴルに来ていると知って一人の女性が 滞在先を訪ねてきました この子 そうか そうや 智弘さんと一緒に 写真に映る少女 ハグバスレンさん

50:46 孤児院の卒業生です [音楽] 元気そうですねって今年おいくつですか もう すぐもうお迎えが来るんやから今年 942年 これは今からおよそ20年前に 施設で撮影された映像 当時14歳の 羽生忘れんさんです けど

51:33 [音楽] 嬉しいことは言ってくれるちゃんとわかっ ててくれるありがとうねよかった

52:20 絶対この安心やねー 素晴らしい 4歳年下の弟と一緒に 路上生活をしていたハグ忘れんさん 大人になるまでの5年間を 施設で過ごしました 現在は 繁殖に 3人の子供と一緒に ウランバートルで暮らしています びっくりしたでしょとかに欲しいからね びっくりしました

53:37 [音楽] 子供さん大事にしてね 元気でなこれから 本当によく来てくれてありがとう 嬉しい [音楽] 2人で並ぶから写真とか何も持ってきて ません [音楽]

54:30 いやほんとありがとう [音楽] 子供たちの方が 記憶が強烈やだね

55:17 [音楽] 70年以上前に 多くの日本人が抑留されたモンゴル 民主化後日本と友好関係を築きました今で はアイドルなども来て日本のイベントが

56:03 頻繁に開催されています [音楽] 一方こちらは東京 毎年春に モンゴル祭りが行われています 逆流という歴史その記憶はなかったことに はできません 壮絶な体験をしそれを 乗り越えた人たちの 努力によって今の 平和な毎日があることを私は知りました [音楽]

56:51 今日はそこはチャレンジしてましたね 智弘さん 最後の慰霊の旅 一番の目的地が ウランバートル郊外にあるこの小さな 丘ですその 上には 日本人抑留者の慰霊碑が 建てられています このシャンプーっと斜面に沿って 墓標が 並んでね 本当に綺麗なお家だったんです

57:37 かつてこの場所にも日本人をクリア社の 遺骨が埋葬されていましたが 現在は日本に移されています 戦友たちの 魂へ 72年の時を越えてともひろさんが最後の 言葉をかけました [音楽] 智弘は こんにちを持って

58:22 潜るとお別れします 皆さんもう 一緒に 日本へ 帰りましょう 私もそのうちに 皆様の世界へ 連れて行ってもらいます 皆さんの行きます モンゴルから皆さんも 帰りましょう日本 へ帰りましょう

59:10 体が続きません [音楽] 言わざるをいなかった [音楽] モンゴル語でさようならそしてこんな意味 もあります 幸せとともにまたあなたと 会いたい

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