0:00 さあ、遡ってみて振り返ってみますとね 紀貫之は古今集、30代の時のお仕事でしたよね それの仮名序というね 平仮名で書いた序文の中に 和歌とは、歌というのは何なのかという そもそものことをこういう風に書いているんですね 「やまとうた」というものは 「人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。」 という風に書いているんですね 「やまとうた」日本の和歌というものは、ということですね 日本の歌、和歌というものは、人の心 やっぱり心なんですね それが元だと、それが種になっていてと そこが、そこから始まるんだということですね
0:46 人の心から始まるんですよと、その人の心というものを 様々な色々な言葉で綴っていった、書き連ねていったもの それが日本の和歌なんですよ 和歌というのは心を読むものなんですよ という風に、まず定義づけているというかね 本質を言い表している訳ですね 「世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、」 世間に生きている私達、皆は、ということですね 言葉とかわざ、行動というものは色んなことを言うたり 色んなことをやったりしますね、ということですね 「こと」言葉ですね、そして「わざ」行い、行動ですね
1:31 色んな言葉を言ったり、色んな行動をしたりすると だから、その時その時にですね 心に思ったことを、「見るもの聞くもの」 色んなものを見たり、色んなものを聞いたり 人間は色んな行動をしますから 色んなものに触れますよね その都度その都度、心に思ったことを言ったもの それが歌なんだよという風に ここでもう歌というのはこういうものだ、という風に 貫之の中で想いがあった訳ですね その30代の頃の想いというものを ずっと60代になっても、ずっと抱き続けていた それが『土佐日記』の中に、また再びこういう日記という形で
2:17 仮名序で書いたことが、今度は日記文学の中で またリピートされている 違う文学のスタイルですよね 文学のスタイル 今度は日記という文学のスタイルの中で やはり同じ想いというものをどうしても伝えたかった 書いておきたかったと そういう想いも、この『土佐日記』の中に読み取ることができる訳ですね その想いを書こうと思った、やっぱり直接のきっかけとなったのは 幼子が亡くなった、女の子が亡くなってしまった それも突然ですね、突然亡くなってしまったというこの悲しみ これがやはり大きなきっかけになったと思うんですね さあ、こんなシーンがあります 枚方にやって来ました、だいぶ近づいてきましたよね 京から任国(土佐)に下った時には、子供はいなかったけれども
3:07 任国で子供を産んだものたちがいると 一行の中にはですね 行く時は子供はいなかったのに、土佐で子供が出来てですね そして、その子供達と一緒に帰ってきている訳ですよね その人々は、船の止まる所で、子供を抱きながら乗り降りすると これを見て「昔の子の母、悲しきに堪へずして、」と 子供を失ったお母さんはもう悲しさに堪えることが出来ないと その堪え切れない時に、ではどうするのか、というと 堪え切れない想いというものを、歌で表現している訳ですね 「なかりしもありつつ帰る人の子をありしもなくて来るがかなしさ」 「なかりしも」行く時はいなかったけれど、今はいるということですね
3:55 帰る時には連れて帰る子がいる人がいると それなのに「ありしもなくて」いたのに亡くして帰ると 子供がいたのに私はその子を失って帰ってくる 悲しいなあという風に言って泣いたと その子供のお父さんもこれを聞いて どういう風に思ったんだろうなというように書いているんですね お父さんもどういう風に思ったんだろうな お父さんというのは、実はこれは貫之ですよね 貫之もどう思ったんだろうと書いているけれども
4:41 もちろん悲しかったんでしょうけれどね そういう風に 一応、貫之が主語ではないですね、この日記というのは ですから、こういう風に書いているんですね 「かうやうのことも、歌も、好むとてあるにもあらざるべし。」 このようなことも、ということですね そして和歌というものも、という風に書いているから このようなことというのは、ちょっとここの解釈が難しくて 色々、説が分かれるところですけれども その直前を指すと 指示語は直前、というのがありますよね、だから お父さんもこれを聞いてどういう風に辛く思っただろうか という訳し方ともう一つ お父さんは、男ですから漢詩文を詠む人ですよね
5:26 女の母は、和歌で表すことが出来て お父さんはここでどんな歌を詠んだ、どんな漢詩を作ったんだろう という風にも解釈できる訳ですね お父さんはその悲しみの想いをどういう漢詩で詠んだんだろうかと その漢詩のようなことも、和歌のようなことも、とすると ここの「も」「も」の並立がうまく解釈できるね、という そういう考え方がありますね 漢詩のようなことも、和歌のようなことも、ですね
6:12 漢詩も和歌もですね 「好むとてあるにもあらざるべし。 」と 「好むと」好きやから詠んでいる訳ではないんだよ、ということですね あ!私、和歌詠むの好きやからこの子供を失った悲しみを 和歌で詠んでみましょうと、上手く詠めたわとか そういうことではないんだよ、という風に言っている訳ですね 「唐土も、ここも、思ふことに堪へぬ時のわざとか。」 中国でも日本でもということですね つまり、漢字で読む漢詩であっても、ということですね そして平仮名で綴る和歌であっても、ということですね
7:01 それは歌というものは想うことの「堪へぬ時の」 もう耐えられない想いですね、想いがもう溢れてしょうがないという そういう時にすることであるということ「とか」聞いているよと 「とか」という風に言っている訳ですね ここにやはり、歌というのは何なのかという、その原点ですよね 歌というのは感情、想い、溢れる想いだよね 溢れる想いをどうにも自分の胸の内だけではもう 苦しくて留めておけないという そういう苦しい想いというものを もうどうにもしょうがない想いというものを 口から出したもの、それが歌なんだよという 非常に純粋でとても大事なことをここで
7:48 貫之はやっぱり何度も何度も繰り返して 書いているという風に思うんですよね その想いというものをやっぱり『土佐日記』を読む時は 女のふりして書いた日記やでと、それだけじゃなくてね その想いというものをやっぱり汲み取って 読んであげないといけないんじゃないかしらという風に 改めて思う訳ですね さあ、ようやく京に帰ってきます ようやく帰ってきた我が家 ところが、しばらく離れていましたからね 家はすっかり荒れてしまっていると 庭の松は半分なくなってしまっていると 松がなくなるのはあまりないことですからね よほど荒れていたんでしょう 反対に、新しく生えた小松も混じっていると 五、六年離れていたうちに
8:34 まるで千年、松は千年とか言いますよね 千年も過ぎてしまったんだろうかと あまりの変わりように感慨もひとしおであるなか 思い出されるのは、この家で生まれた女の子のことであると 庭も変わってしまっている 自分の家というものが、年数離れているうちに こんなに変わってしまって そして我が身にも大きな変化があったんですね 女の子がいなくなるという大きな変化があって もう庭を見ると一層切なくなる訳ですね 「思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、」 思い出さないことはないと 女の子のことで、思い出さないことはないと あれやこれやの思い出が蘇ってくる訳ですね そうすると、もう恋しくて仕方がない訳です
9:22 「この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。」 この家で生まれた女の子 今、一緒に帰ってくることができない訳ですね だから、どんなにか悲しいことだろうかと もう言い表せないぐらい悲しいの、すごく悲しい 「船人も、みな子たかりてののしる。」と そういう風に1人ですね、自分が悲しみに暮れている周りでは 皆が京に帰ってきてですね、皆その船人達がね お子さんが皆集まってですね、賑わっている訳ですね 「やった、皆京に帰れたね!」と家族でワイワイしている訳ですよ だからそういう光景を見ると、より一層 自分も女の子一緒やったらこんなに喜べたのになと
10:08 思ってしまう訳ですね こうしているうちに、やっぱり更に悲しさに堪えられないと そこで密かにこっそりと、その想いを 共通の想いを抱いている人と詠みあった歌 「生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ」 もう分かりやすいですね 生まれてきたけれども帰ってこない女の子ですね 自分の女の子ですね、亡くなった 自分の女の子は帰ってこないのに、それなのに我が家には 小松、小さい松が生まれている、芽生えている訳ですよね 松にも子供がいるのかということですよね
10:56 自分には帰ってこないのに、いなくなったのに 松にも小さい子供が生まれている 周りの人だけではなくて、松にまで子供がいるなんて 何て切ないんだと、悲しいと それでも「飽かず」と、満ち足りない訳ですね、満足しない もう悲しさに堪えられずに歌にしたと それでもまだ癒えない悲しみというのがあった訳ですね また、こういう風にも詠んだと 「見し人の松の千歳に見ましかば遠く悲しき別れせましや」 私の子ですね、見てきた子供ということですよね 私の子供、松が千年の寿命があるように見たかったなと
11:43 すくすくとこの先ずっと成長していく様子を見たかったなということですね そうしたら、遠く悲しき別れなんてしなくて済んだのになぁとね 松が千年生きるように成長していたらなぁということですね こんな辛い別れなんてしなくて済んだのになぁですね もし松のようにすくすくと成長してくれていたら 今もちゃんと生きていてくれたらと こんな辛い悲しみ味わわなくて済んだのになぁと いう風に詠んだんですね
12:30 ここでもやはりその想い 堪えきれぬ、心の内にもう抑えておけぬ想いですね それが歌として詠まれているという だから、やっぱり貫之にとって 和歌というものがどういうものであったかですね 仮名序を書いた、和歌の達人であった貫之にとって歌というもの やはりこれがなくては生きていけないものだったんだろうな という風に思いますね 歌にすることによって、自分の悲しみというものを表に出す 表出することによって、自分の悲しみが癒されると そういう歌の力というものですね それをすごく実感していた そのことを書いておきたいということも この『土佐日記』の中の大きなテーマだったと思うんですね
13:15 その歌の力というのはやっぱり、女文字の力なんですね 平仮名で綴る歌の力なんですよね 平仮名というもの、歌というものですね それが非常に自分の心にとって大事なものであるというね そういうものであったという、そういう想いが 冒頭のあのポーズにつながってくるんだろうなという風に思います さあ、そして『土佐日記』はこういう風に終わるんですね 「忘れがたく、口惜しきこと多かれど、え尽くさず。 」 「え、ず」というのは不可能というのをやりましたね だから、忘れられない、残念なことは多いけれどもですね 「口惜し」というのは残念だ、ですね だけれども、尽くすことができないと
14:03 書き尽くせないということですね 書ききれないと こうやって女になって私は日記を書いてきたけれども、ですね だけれども、忘れられない想い出、残念だなと思う気持ち これは女文字でも私書ききれないわという風に言うてるんですね 女になっても、平仮名で書いてみてもですね 書ききれないな、もうとっても切ないね 「とまれかうまれ、とく破りてむ。 」 もういっそ、「ええいままよ!」というのが 「とまれかうまれ 」ですけれども もういっそ、早く破ってしまおうと言っているね
14:52 書いたもの、もう破り捨ててしまおうと もうこんなん書いても私の気持ち、全然足りないわ 書き足りないわ 書ききれないわということですね だからもう「こんなもんあかんわ!」言うて 破ってしまおうという風に『土佐日記』は終わるんですね と言いながらですね、と言いながら破っていないよね 本当に破ってしまっていたら 私達は『土佐日記』を読むことが出来ない訳ですよね それはどうしてなのかな、なんでこんなことを書いたんかなというね それをちょっと考えてみるのもいいことかもしれませんよね やっぱり誰かに読んでほしいという想いがきっと 貫之の中にあったんでしょうね 共鳴、共感を得たいという想いがあったのかもしれませんよね
15:39 そんなことも思わせる、この女のポーズをするという ポージングをして書くということ、そのもの自体がですね やはり何か普通の日記とは違いますよね 特別な日記作品として何か書こうとしているという そういう貫之の意志、意図みたいなものも透けて見える やっぱり、この『土佐日記』というのも色々なことを考えさせられる 深い日記だなという風に思います さあ、読書ガイドでちょっと興味を持った方、短い日記ですからね 是非読んでみてくださいね 『ビギナーズ・クラシックス』の方にも全部収録されていますし 色々な注釈書も出ています 作家が手がけたものとしては、リンボウさん、林望先生ですね
16:28 この方は文学研究者でもあるんですけれども 作家エッセイなんかもたくさん手がけておられますが 『すらすら読める土佐日記』というのがあるし また堀江敏幸さんという フランス文学者で非常に美しい日本語を使って 小説なんかを書かれる作家ですけれども その方も『土佐日記』の訳に挑戦しておられるんですね それで、この訳はね、本当に平仮名ばかりで書いているんですよ ちょっと読みにくいんだけれども そういう挑戦というのもなされています また色々ね、手に取ってみてくださいね このリンボウさん、林望先生の『すらすら読める土佐日記』では この最初の一文をどういう風に読んだらいいのかなと
17:15 そのことを問題にしているんですよね どうしてこんなことを書いたんだろうかということで これは、お付きの女房として淡々と記録している 備忘ノートみたいな文体を意図している、という風に読んだというね 色んなね、やっぱりね あの一文には色んな読み方が出来ると思うんですよね 皆さんもまた、こういう全体を読んでみた上で また最初の一文の意味というものを 考えてみるというのも、面白いことだと思います その読み方の中に一つ、「男もすなる」の中に実は ここに女文字、「をむなもし」で女文字ですよね
18:03 「をとこもす」だけど、男文字という それが隠されているんだという そういう説を立てていらっしゃる、研究者の方もいらっしゃいます 男文字の日記というものを女文字でしてみようと思うんだという そういう言葉遊びというのかしら、そういうものも実は 『土佐日記』の中には隠されているんだよというね そういう言葉に通達した紀貫之ですから そういうことも大いにあり得る訳ですよね そういう読み方なんかも出来るというね 非常に面白い文学でもありますから 是非ね、また取っていただけたらいいなという風に思いますし やっぱり歌に対する心というものですね 貫之は非常に心というものを大事にした人だということ
18:50 そういうことも伝わってきてですね 何か貫之っていい人だな、みたいなね そういう風にも思ったりもいたします さあ、今日はここまでにいたしましょう お疲れ様でした